~北へ~(370)70日目① 日本100名城 久保田城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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神明山(標高40m)に築かれた平山城 久保田城に登城しております。


 久保田城表門(復元)

 
 久保田城表門 (左)
表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらばんしょ)」を置いて厳重な守りを固めていた。
久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門(やぐらもん)であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
 平成十三年三月   秋田市     -説明板より


 御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)(右)
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属する役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側十四畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。
北側には七畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には八畳の部屋が配置されている。
『国典類抄』などの資料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。
久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。
昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
 形式 切妻造南庇付 こけら葺屋根
 間口 約10.5m(5.5間)
 奥行き 約9.5m(5間)
 平面積 約100㎡(30坪)
   平成十三年十一月  秋田市   -説明板より



 御物頭御番所(現存)

 



 

  
   番所から見た二の丸



復元された本丸表門をくぐり抜けて本丸にあがります。

 
 久保田城表門礎石
展示されている六基の石は、久保田城表門に使われていた礎石です。
また、展示はされておりませんが、礎石(①と⑤)の間、(④と⑥)の間には柱の掘り方(穴)があり、深さ約1.4m下に礎石が据えられていました。
これら六基の礎石と二基の掘り方から、表門の柱間は正面桁行方向)2.1m+4.9m+2.1mの9.1m、奥行き(梁間方向)2.4m+2.4mの4.8mであったことがわかっています。
全ての礎石は上面が平坦で、ほぞ穴があり、扉の付く鏡柱の礎石(②と③)は石・ほぞ穴とも他の礎石より大きくなっています。
また、両側の控柱用の礎石(①と④)の石垣側(外側)には、ほぞ穴の他に深さ2㎝の寄席掛け柱用の彫り込みが認められます。
この他に、発掘調査では古い段階の小規模な門の跡が確認され、記録保存しています。
注※ 礎石は、表門を再建した位置にありましたが、来園する方々に見ていただくために、現在の位置に移設したものです。
-案内板より






                               つづく








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