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松前城(正式名称 福山城)は実戦の舞台となり、
激しい攻防戦が繰り広げられた城であります。

外観復元天守から出て、現存構築物の本丸御門に。



重要文化財福山城(松前城)
本丸御門修理概要等
福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。
松前家五世慶広が、天正17(1589)年、徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長五(1600)年福山の地で築城に着手し、同十一(1606)年完成した。
蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永三(1850)年、幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張りにより、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみた。
その後十数年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治八(1875)年には、天守(三層櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。
昭和十六年これら三棟は、国宝に指定されたが、同二十四年本丸御門を残して他の建物は焼失し、指定を解除された。
同二十五年文化財保護法の施行により、本丸御殿は重要文化財に指定された。本丸御殿は昭和二十四年屋根葺替部分修理を行っているが、修理後三十五年を経て、屋根銅板が磨耗し雨漏りが生じるようになり、また昭和五十八年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため、屋根葺替部分修理を実施した。
実施に当たっては松前町の直轄工事とし、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。
-説明板より

石垣には付近の山で採れる加工しやすい緑色凝灰岩が使用され、
緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城でありました。
また、その組み方もノミで丹念に整形し隙間なく積むことで、
土の解凍時に流れ出してしまわないよう工夫がなされている。
この組み方は「亀甲積み」とも言われています。

もう一つの現存、「表御殿玄関」は、本丸御門の横に移築されております。

福山城本丸表御殿玄関(現存)


北海道指定有形文化財
旧福山城本丸表御殿玄関
慶長十一(一六〇六)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。
しかし、寛永十四(一六三七)年城中より出火し、多くの建物を焼失、同一六年これを修築した。
その際、表御門には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治八年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門表御門は残った。
表御門は松城小学校として充用され、明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和五十七年まで利用されてきた。
昭和三十八年七月二十六日指定 -説明板より

武田氏略系 松前氏歴代
戊辰の役(戦争)末期に元新選組の土方歳三先生が率いた約700名の
攻撃により、わずか数時間で落城した松前城ですが、城址として少しづつ
整備が進んでいるようです。もう少し城の縄張りらしく整備が進めば、良い
城址となる事でしょう。楽しみです。

日本100名城スタンプ
松前城(福山城)(3)
つづく
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