北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
安政元年(1854)に完成した松前城(正式名称 福山城)は、松前町福山
(約140m)の台地に築かれた平山城で、東西240m、南北300m、
16の門、7つの砲台、4つの櫓を有した蝦夷地(北海道)唯一つの、
石田城(長崎県)と並び最後期の日本式城郭であります。


松前藩の先祖に当る武田信広公をお祀りしています
「松前神社」に参拝です。

社殿(神明造り・総ヒノキ造)は、大正十二年の再建
本御影石の鳥居は、八幡宮(現桜見本園内)にあったもので、
天保二年(1831)に松前藩の藩船長者丸の船頭松本金蔵の奉納。


松前神社 御朱印

北側から見た本丸(廃城後は小学校として使われた)
左奥・独立式層塔型3重3階の天守(RC造外観復元)右奥・本丸御門(現存)


公立松城高等・尋常小学校の門と碑
コンクリートで復元された天守には興味がないですが、
現存する門、玄関を見る為には入らないとならない様なので。


外観復元された天守は資料館となっています。







地階 アイヌ民族の資料
1階 松前藩関係資料
2階 松本家資料展
3階 夷酋列像・松前城写真・福山(松前)城出土陶器展


乙箇律葛亜泥(イコリカヤニ)
クナシリの準指導者。不敵勇猛であり、衆夷かに敬服されている。
クナシリで一番の弓の名手。 -説明板より
夷酋列像(いしゅうれつぞう)
寛政元(1789)年、クナシリ島やメナシ地方(根室管内)のヌイヌ民族が場所請負人飛騨屋の横暴に対し蜂起する事件があつた。(国後目梨騒動、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる)この事件では、クナシリ島や対岸の標津(しべつ)地方で和人71人が殺害され、搾取に苦しむアイヌ民族の怒りが頂点に達した結果であつた。
これに対し松前藩側では急きょ260人余の討伐隊を派遣し、首謀者ら37人のアイヌを処刑し事件を収束させた。この時、松前藩側に協力し事件の収拾にあたったアイヌの指導者12人の肖像が「夷酋列像」である。
事件後の9月、松前藩は44人のアイヌを引き連れ城下へ凱旋(がいせん)するが、それらアイヌの人々は松前で一冬過ごしたという。
この時、藩主道廣は、弟で家老であった蠣崎波響にその肖像を描せた。ただし、12人のうち実際に松前に来ていたのは4人(シモチ、イニンカリ、ニシコマッケ、イコリカヤニ)で、残りの8人は人相などの聞き取りによって描いたものと云われている。しかし、描くにあたってはかなり苦心したらしく、多数の下描き(粉本)が残されており、完成したのは翌年秋であつた。
波響は寛政3年、作品を携えて上洛し、改めて浄書を行った。「夷酋列像」は文人の間での評判が高まり、ついに天覧(天皇陛下がご覧になること)を賜わるにいたった。その後、諸大名の間でも関心が持たれ、借り受けた大名による模写作品がいくつか知られている。展示作品は 黒田家旧蔵の模写(小島貞喜による)作品である。
「夷酋列像」は二組(松前家と蠣崎家蔵、一説にはもうー組あった)作成されたが、明治維新の混乱のため散逸してしまい、現在、市立函館図書館に2幅とフランスのブザンソン美術館に11幅が保存されている。
-説明板より

外観復元天守3階からの眺め
つづく
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