~北へ~(347)65日目① 日本100名城 福山城(松前城)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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65日目。今日は晴れそうです。

     

本日は、蝦夷地唯一の藩である松前藩松前氏の居城
福山城(松前城)に登城から始めます。

 
 国指定史跡 福山城(左)
指定年月日 昭和十年六月七日
指定面積 七二、六七四平方メートル
指定団体 松前町
福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって嘉永2(1849)年松前家17世(松前藩13代藩主)崇廣に築城を命じ、高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元(1854)年完成した。
城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、三層櫓1、2層櫓3、城門16、砲台7からなっている。構造形式は平城、わが国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。
-案内板より


  馬坂の由来(右)
 江戸時代に松前藩士が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂(かずまさか)」と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
 松前家五世・藩主松前慶広の四男・数馬之介由広が大坂冬の陣(一六一四)が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、斬り殺された場所とも伝えられている。当時、城内へ通ずる坂は五つあり(馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその一つである。
-案内板より



搦手にあたる馬坂から登城開始です。

 

大松前川に架かる馬坂橋を渡り、



緩やかな坂を上ると馬坂門跡。その先が三の丸です。

     

三の丸木橋を渡り、搦手ニノ門へ。




 木橋の架かる外堀(水路)左手が三の丸で左奥に5番台場跡。
 三の丸には、このような台場(砲台)が7つあった。


 搦手ニノ門(高麗門)


 搦手ニノ門を二の丸側(内側)から三の丸を見る

 
  搦手ニノ門左右には東郭隅櫓跡と二重太鼓櫓跡


 東郭隅櫓跡近くから今、上って来た馬坂を見る

搦手ニノ門の二の丸側(内側)は枡形となっていた
ようだが復元はされていない。






 
搦手ニノ門の枡形が整備されていないので、すぐに復元された
「搦手門(復元天守への入口となっている)」が見えます。




                               つづく








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