北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
65日目。今日は晴れそうです。

本日は、蝦夷地唯一の藩である松前藩松前氏の居城
福山城(松前城)に登城から始めます。


国指定史跡 福山城(左)
指定年月日 昭和十年六月七日
指定面積 七二、六七四平方メートル
指定団体 松前町
福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって嘉永2(1849)年松前家17世(松前藩13代藩主)崇廣に築城を命じ、高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元(1854)年完成した。
城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、三層櫓1、2層櫓3、城門16、砲台7からなっている。構造形式は平城、わが国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。
-案内板より
馬坂の由来(右)
江戸時代に松前藩士が登城したと伝えられる馬坂は「数馬坂(かずまさか)」と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったと伝えられている。
松前家五世・藩主松前慶広の四男・数馬之介由広が大坂冬の陣(一六一四)が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、斬り殺された場所とも伝えられている。当時、城内へ通ずる坂は五つあり(馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)馬坂はその一つである。
-案内板より
搦手にあたる馬坂から登城開始です。


大松前川に架かる馬坂橋を渡り、

緩やかな坂を上ると馬坂門跡。その先が三の丸です。

三の丸木橋を渡り、搦手ニノ門へ。


木橋の架かる外堀(水路)左手が三の丸で左奥に5番台場跡。
三の丸には、このような台場(砲台)が7つあった。

搦手ニノ門(高麗門)

搦手ニノ門を二の丸側(内側)から三の丸を見る


搦手ニノ門左右には東郭隅櫓跡と二重太鼓櫓跡

東郭隅櫓跡近くから今、上って来た馬坂を見る
搦手ニノ門の二の丸側(内側)は枡形となっていた
ようだが復元はされていない。


搦手ニノ門の枡形が整備されていないので、すぐに復元された
「搦手門(復元天守への入口となっている)」が見えます。
つづく
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