北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
美国町の街をぬけて、一旦国道を離れ、海沿いの道へ。

目指すは、積丹半島の先端近く「島武意海岸展望台」です。


地名はアイヌ語の「シュマ・ムイ」(岩の入り江)に由来してます。


日本の渚百選にも選ばれている島武意海岸は、



積丹ブルーなどと呼ばれる海が広がる海岸との事ですが、
曇空のため、その青は見れませんでしたが水の透明度は◎

続いて、積丹半島もう一つの先端「神威岬」に向かいます。
ちなみに、「シャコタン」とは、アイヌ語で「夏の村」という意味。

すぐに岩がむき出しとなった神威岬が見えてきました。


駐車場から舗装されている坂道を上り女人禁制の門に到着。

なぜ女人禁制なのかの歴史を紐解くと、古くからのある言い伝えが関係しています。かつてアイヌの酋長の娘チャレンカが源義経を慕い神威岬まで追ってきた際、彼がすでに出発した後だったため身を投げて神威岩になったという言い伝えです。この沖合は西蝦夷三険岬の一つとして海難事故が多発する難所であり、女性を乗せた船はチャレンカの怨念で転覆するとの迷信が生まれました。これが神威岬までの一帯が女人禁制にされた理由です(松前藩がここを自由に通らせたくなかったとの説も)。江差追分の中にも「恨みますぞいお神威さまよ、なぜに女の足をとめる」の一説があります。
江戸幕府が蝦夷地を直轄し始めた1855年になると、神威岬以北へも移住民の土着を奨励するようになりました。箱館奉行の梨本弥五郎氏も1856年に宗谷へ赴任することになりましたが、神威岬沖でやはり海が荒れました。この時、梨本氏は銃を発砲したところ、海が穏やかになったといいます。これをきっかけに女人禁制が事実上解除されたのですが、沖合を通過する船に乗った女性は身を隠すなど、しばらくは迷信の影響が残ったそうです。
さて、女人禁制の門を通る際は、その門に掲げられている立札にも注目です。「美味しい岬の空気を吸ってください。健康になります」とあります。
-北海道ファンマガジンより

門から先端部までは尾根沿いの遊歩道を雄大な景色を眺めながら進みます。

自然の造りだした造形美に感心しながら歩きました。


つづく
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