~北へ~(327)46日目⑭ 網走刑務所 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


博物館網走監獄を見学し、続いて本物の刑務所を見に行きました。

  







現在も使用されているので、内部を見学することは出来ません。

         



       

正門周辺を見ていると、どこからか号令が聞こえ、囚人と思われる
グループが刑務官と共に正門前に来て、清掃作業を行ってました。




  網走刑務所の概要
 明治二十三年(1890年)に、札幌と網走間の北海道中央横断道路の開削を受刑者によって施工するため、現在地に収容所が設けられたのが網走刑務所の始りです。
 道路工事は約千人の受刑者が出役し、厳寒風雪に耐え、二百名にも及ぶ尊い犠牲者を出し完成しました。この道路は今日『囚徒の拓いた道』と呼ばれ、北海道開拓の礎石をなしたとして、二見ヶ岡、北見峠の沿道に「國道殉難者慰霊碑」が建立され顕彰されています。
その道路は、現在のJR石北本線沿いの国道とほぼ同じ経路であり、網走から北見峠まで約一六○粁の、原生林を倒伐しながら三間幅の道路を僅か8か月で完遂しています。その後、原野を開墾、農耕地を拡大整備し、造林を行ってきました。この間、受刑者は、網走市の美岬道路、遠軽町(旧生田原町)、弟子屈町の道路工事のほか、美幌町及び大空町(旧女満別町)の飛行場建設工事、網走港や宇登呂港の護岸工事、常呂川や斜里川の改修工事、橋梁新設工事、遠軽町の植林整地工事などにも従事しました。
 往時は長期刑の受刑者を収容していましたが、現在は、おおむね刑期三年程度の者を収容しています。
 現在の刑務作業は、農耕、植林、伐採、酪農、木工、金属、窯業等の作業です。
-網走刑務所正門前看板より



  網走刑務所の建造物について
 網走刑務所の建物は、日本行刑史、北海道開拓史上の文化的価値が極めて高い
建造物で、その主要なものは明治四十五年(1912年)に建造され七十有余年の間使用されてきたが、昭和五十九年(1984年)の施設近代化工事の着工に伴い、その役目を終えた。
 網走刑務所が開設当時から、北海道、特にこの道東地方の開発と近代化に尽くした大きな足跡を保存するために、昭和五十五年(1980年)、網走市民より(財)網走監獄保存財団が設立された。
 主要建造物(舎房、講堂、庁舎)は往時の姿そのままに移築、復元され 博物館 網走監獄で公開されている。(国道三十九号線、網走湖ほとり)
 現在の赤レンガ正門は、フランス様式のデザインで、司法省技師 後藤慶二氏(豊多摩監獄、中野刑務所の設計者)の設計・アイデアを生かし、大正十一年(1922年)十月に竣工した。その建築意匠は歴史上極めて貴重な文化財である。
 レンガ塀を含め、これに使用されたレンガは、刑務所内の用地から出土した粘土を用い、所内の工場で焼き上げ、総数約百五十万枚にも及んでいる。
-網走刑務所正門前看板より




  哨舎
 哨舎は、外部からの侵入や受刑者の行動を監視する見張所のことです。
全国各地の刑務所には、出入口に様々な型の哨舎があります。
-哨舎案内板より




レンガ塀沿いを戻りました。






                              つづく