北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
室蘭招魂社・八幡宮に参拝後、ハラが減ったので室蘭の駅の方へ。

味の大王 室蘭本店(室蘭駅近く商店街の外れ)
シャッター商店街の外れに「室蘭カレーラーメン」の幟発見。
店内に入るとカレーの匂い充満。壁のサイン色紙が目に入いります。
意外?にも10人以上の客人が居ました。
スープを一口。アレ?食べたことある?もしかして日清カップヌードル
カレーの味?麺は中太縮れの札幌麺。スープの味がしすぎて、小麦の味
は、どこえやら。ハムに近いチャーシュー2枚。、他には、モヤシと
ワカメが載る。食べ進めていると汗は出てきたので、色々なスパイスを
使っているのだろう。

カレーラーメン

海を見ながら走り、たどり着いたのは「アイヌ民族博物館」のある
しらおいポロトコタン(白老郡白老町)です。

白老ポロトコタン
アイヌ語で、
「ポロ」は「大きい」
「ト」は「湖」
「コタン」は「集落」

中々広い駐車場。ガラガラなので、入り口近くに停めると係りの人が来て
「そこは、大型バスの所だから駄目。向こうに停めてください」と100m程
離れた駐車場の隅を指してます。 協賛している観光バス優遇ですか。
なんと有料 駐車料金を払い入口へ。


安くない入場料を払い、入ると大きな「コタンコルクル」の像がお出迎え。
アイヌ語で、コルクルは「村おさ」の意
民族共生の人 松浦武四郎
松浦武四郎は、幕末にアイヌ民族と心を通わせ、現在にアイヌ文化を伝えるなど、数々の業績に残したヒューマニズム溢れる人でした。
生まれは伊勢国須川(三重県松阪市、少年期から人々の温かさに触れながら、全国を旅する中で、豊かな知識と真実を見抜く力を養い、弘化二(一八四五)年にアイヌモシリ(蝦夷地)に初めて渡りました。
そして、この台地で生きるアイヌ民族の固有の文化に深く心を打たれ、アイヌ民族の信頼に支えられながら、夢と情熱と権力に対する反骨精神を胸に全六回、およそ二万キロを踏査しました。
これらの探検の記録は百五十一冊の書物にまとめられ、うち五回訪れた白老の様子は初航蝦夷日誌」「丁巳西蝦夷山川地理取調日誌」「東蝦夷日誌」に詳しく記されています。
明治維新を迎え、開拓判官を勤めた武四郎は蝦夷地に代わる名称として、古くからアイヌ民族が暮らす北の大地という思いを込めて「北加伊道」を提案、そこから「北海道」の名が生まれました。
加えて、アイヌ語地名をもとに、国名(後に支庁名)や郡名の選定にあたるなど、武四郎はアイヌ民族と和人が共に暮らすことができる社会を目指して行動した民族共生の人だったのです。
平成二十六年十月 白老町長 戸田安彦 -碑文より
松浦武四郎 生涯
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[5]、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[5]、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[5]。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した[6]。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。 -Wikipediaより抜粋

碑を過ぎ進むと匂いと共にオリが見えてきました。



もう少しちゃんとした環境で飼育すればいいのにと思いながら、
熊のオリの方へ。


ノイローゼ状態(同じところをグルグルし、毎回同じところを同じ足で踏む)
このオリでは、熊には狭すぎるでしょう。 犬とともに改善されれば良いと思ういます。
すると犬の方で「食べた、食べた。ほらこっちこっち」とのはしゃぐ声。


学生にまじり、若い女の先生が犬に熊用の餌(販売されている)を
与えていました。生徒ではなく先生ですよ。呆れました。
思わず近づいて「これ読めませんか」と言ってしまった。
駐車場といい、飼育方法と言い、馬鹿な教師といい、何となく
嫌な気分で進むと、復元された「家/チセ」が建っておりました。

チセ/家(左) プ/食糧庫(右)


チセの中
つづく