北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
八甲田山雪中行軍遭難資料館にきております。
八甲田雪中行軍遭難とは、明治三十五年(1902)一月に大日本帝国陸軍
第8師団歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中
行軍の途中で遭難。
210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季
軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であります。

この訓練は、南下政策を採る露帝国に対する備えとして、厳寒地での
戦いを想定。
青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名と民間の
新聞記者1名が参加し行われました。

青森歩兵第5連隊は露帝国軍の侵略で青森の海岸沿いの列車が動かなく
なった際、冬場に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての
物資の輸送が可能かどうかを調査することが主な目的。
最大の難所である青森~田代温泉間(片道約20km)の雪中行軍演習が、
1月23日より1夜2日の予定で計画されました。
事前(明治三十五年一月十八日)に行軍計画の立案者である神成大尉の
指揮で予行演習を行った。これは小隊規模(約40名)の将兵とソリ1台で
屯営~小峠間(片道約9km)を往復したもので、天候もよく成功している。

弘前歩兵第31連隊は、3年がかりで実行してきた雪中行軍の仕上げで、
「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」全般。
「弘前~十和田湖~三本木~田代~青森~浪岡~弘前」の総距離
224kmのルートで1月20日より11夜12日の行程でありました。

第5連隊の行軍ルート、捜索に協力したアイヌ人の活躍、兵士たちの
装備、生存者の治療法、当時の新聞や手記など、詳しい説明パネルや
模型などが展示されています。

映画やテレビドラマのような「帝国陸軍は悪」というような印象操作もなく、
事実のみの積み上げで大変勉強になりました。
広島、沖縄の資料館・祈念館なども見習って頂きたいモノです。
入口あった後藤伍長の銅像は複製ですので、実物はどこにあるのかと
職員の方にお聞きすると「車ならすぐ」とのことなので、行ってみました。

青森歩兵第5連隊の行軍ルートとほぼ同じ県道40号を走り、
教えて頂いた目印「土産屋」の駐車場に停め、5~6分かな。
凄い風雨の中、青森の連隊駐屯地の方角に顔を向け立っていました。



台座の「歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑文」銅板
(複製。実物は資料館)

歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑
軍隊の野外における演習は、主とするところ、岨嶮を跋し、もって戦術を講じ、
寒暑を冒し、もって筋骨を練るにあり。
この如くならざれば、戦時の用に供するに足らず。青森衛戊の如き毎年雪中
行軍の挙あるは、其の一なり。
去歳1月23日、第2大隊将卒200余人田代に赴く。たまたま大風雪3昼夜に
連なり、全退路を失い飢凍して斃者相次ぐ。営中の将士その期を過ぐるも還ら
ざるを怪しみ、卒を発してこれを遂う。天地陰晦、漠として踪跡を知らず。
一人雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり、始めて、その隊の
動静を詳にするを得たり。
遂に大いに捜索を行い、掘りて大尉神成文吉以下199名の屍を得たり。
その幸いにして生を得る者、大隊長少佐山口鋠等10有余人のみ、事、
皇上に聞す、震悼して、侍臣を特派せられ弔慰優渥なり。
また有司に勅して厚くその家恤まる。
中外の官民亦貲*余万を損て、もって賑恤の資となす。死者また瞑すべし。
然りといえども均しく之の死するや、砲煙弾雨の下に斃れずして**雪虐の
間に殞す。*に悼まざらんや、是に*い 有志の諸将校と相諮り碑を八甲田
山麓馬立場の邱に建て、もってその事を紀し、且つ、後日行軍する者の標識
となすという。
明治36年 歳は癸卯に在り6月
陸軍大将 寺内正毅 撰
-東八甲田観光開発協議会説明板より

歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑の説明版
風雨が強く、また景色もよく見えないので早々に車に戻りました。
つづく