北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
夜中に降った雨はあがったが寒い。体感温度一桁ですが、
25日目も元気に出発しました。


最初に訪れた先は「櫛引八幡宮」南部の一宮 総鎮守でございます。

樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ境内は、
八幡山と呼ばれ親しまれております。

「御神馬」と刻まれた台座の上には、注連縄をまとった花崗岩の八幡馬

朱色の太鼓橋(神橋)

鯉と河童


櫛引八幡宮の草創
櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。
南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、 文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し建久2年(1191年)に入部、 後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。
「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、 平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。
また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、別当普門院の祖となったという。
津島平次郎の子孫に当たる 滝沢家は八幡宮の鍵守として、普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。
また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に坂上田村麻呂が祀った 八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。
以後、 櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったのである。-公式Webより

正門(四脚門・切妻造・銅板葺 慶安元年(1648)建立 国指定重要文化財)


垣の中へ。

拝殿(桁行15間梁間8間・入母屋造・銅板葺 昭和五九年竣工)



社号額の横には十二支額が掲げられておりました。

拝殿ない

長所(旧拝殿)国指定重要文化財
(桁行七間 向拝一間・入母屋造・銅板葺 慶安元年(1648)建立)

つづく