北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
秋田方面に車で15分ほどの大鳥井山遺跡(後三年の合戦古戦場)に着ました。

先程登城した横手城の模擬天守が見えます。

大鳥井山遺跡(大鳥井柵跡)は、平安時代の遺跡・豪族・出羽清原氏
(清原光頼・大鳥山太郎頼遠)の居城です。

横手市新坂町・大鳥町に総合運動公園の整備を計画し、その調査の過程で
当遺跡の存在が明らかになり、昭和五十二年(1977)から約7年間にわたり、
発掘調査が行なわれ、平成十九年に再調査がおこなわれました。

現在は、その大部分に当初の計画通り、遺跡を埋め戻して運動広場や
テニスコート・屋外プールなどが整備され、宅地になっている所も
あり、一部しか見る事が出来ず、復元もされていないので、残念な
事になっていました。

大鳥井柵跡は、横手川とその支流である吉沢川の合流点東側に位置し、
川に面していない三方向を土塁と堀で囲んだ構造であります。

最大の空堀は幅10m・深さ3mにも及び、空堀の内側には柵列が見られ、
掘立柱建物跡も発掘調査で見つかっていますが…

発掘された堀と土塁(横手市Webより)
後三年合戦とは
後三年合戦は、清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、朝廷が源義家を遣わして、これを討った戦いとされることが多いようです。もともとは、清原一族の内部分裂で、相互の戦いの途中に陸奥守に赴任してきた源義家が介入することで、事が大きくなりました。
分裂していた清原氏の一方の側(清原清衡・吉彦秀武)に源義家が加担し、他方の側(清原武衡・家衡)を滅亡させた事件といわれ、このとき朝廷は、清原氏が反乱を企てたという認識はなく、源義家は翌年に陸奥守を解任されています。このことからも、「役」ではなく「合戦」というようになっています。
『後三年合戦』で勝利者の側についた清原氏の一方の側の中心人物が、平泉藤原氏の初代清衡であったことで、清衡は清原氏が有していた力を東北地方北部に発展的に継承することができました。
一方、朝廷は源義家の行動を私戦とみなしたので、東北地方に源氏の拠点を築くことはできませんでした。しかし、源義家を中心とする源氏の躍進はめざましく、『後三年合戦』は日本史における中世武家社会形成の要因と位置付けられています。 横手市を舞台に展開された、『後三年合戦』や清原氏の存在なくしては、平泉藤原氏の時代や源氏の時代はなかったということがいえるでしょう。-横手市Webより
公園にて休憩をしていた営業車の方と話す事が出来たので、朝行った
横手やきそば屋が休みだった話をすると「少し遠いがココも旨いよ」と。

喫茶とやきそば ふじた(秋田銀行浅舞支店近く)
朝食べれなかったので何か執着。
駐車場に幟がなかったら見つけられそうにない路地の中に店は
ありました。
初「横手焼きそば」実食。けっして不味い訳ではないが、
和出汁で薄まったソース味。「焼き」そばというより「蒸し」そば。
食べている途中に中々旨い味噌汁が出てきた。
なんだかなぁ。。。

特製(肉玉W)
「横手焼きそば」が食べれた事に一応満足して本日の旅泊地に。

本日の旅泊地・矢巾PA 車中泊

夜中に凄い雨が…

第23日目終了
本日の走行距離 173km
つづく