北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
他のお堂にお参りしながら月見坂を下りました。


弁財天堂
本尊の辯財天十五童子は宝永2年(1705)、仙台藩主伊達綱村公正室仙姫の寄進、現堂宇は正徳6年(1716)に建立された。讃衡蔵に収蔵される国宝「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」十幀は、もとは仙姫寄進の厨子に納められ、この堂内に奉安されていた。辯財天は水と豊かな実りをつかさどるインド・サラスヴァティー河の女神で、仏教と共に日本に伝来した。8本の腕をもち、手には弓矢などを執るが、「金光明最勝王経」(大辯財天女品)の記述による。池や河川とともにまつられ、水流の美しい響きにちなんで「妙音天」とも称し、言葉や知識、音楽や芸能の神として信仰される。また15人の童子を使ってさまざまな利益ををもたらす福徳神である。福徳円満、子宝天授、安産、学業成就と祈願に応じて利益を授ける。辯財天のご真言…おん そらそばていえい そわか-案内板より


阿弥陀堂(彌陁堂) 御朱印

阿弥陀仏

鐘楼

大日堂(三間四方、宝形造りに庇を付く)

ご本尊 大日如来


峯薬師堂由緒
もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573年~1591年)に荒廃、のち元禄2年(1689年)現在の地に再建す。堂の面積は32.5坪、型式は桁行3間、梁行3間の瓦葺の単層宝形造りで、御本尊は丈6(約2.7米)の薬師如来の座像でカツラ材の寄せ木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置されている。現在の御堂は昭和57年の改築で、御本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麿師の謹刻になるものである。薬師如来は大医王仏とも言われ正式には薬師瑠璃光世界の教主である。除病安楽・息災難苦等を消滅させてくれる絶大な功徳をもっている御仏として古くから信仰されている。-案内板より

峯薬師堂(薬師如来(中)日光菩薩、月光菩薩の三尊)


峯薬師堂(願成就院)御朱印と薬師堂 御朱印


薬師堂
この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されております。また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかありません。・・・(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には子安地蔵が安置されている。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。-案内板より


不動堂(昭和五十二年建立の祈祷堂)
御本尊の不動明王は貞享元年(1684)仙台藩主伊達綱村公奉納


観音堂


弁慶堂(旧愛宕堂)
この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。-案内板より






木鼻


弁慶の薙刀は、長さ4尺5寸5分 幅2寸8分という。


弁慶堂 御朱印
時間なのか。閉まっているお堂もあり、御朱印の頂けない
お堂もありましたが、良き参拝ができました。
本日の旅泊地・錦秋湖SA 車中泊

腹が減ったので、SAにてカツカレー

すると明日行く「横手」の名がつく「焼きそば」が…

お土産コーナーの人から情報収集。明日行く事に。
第22日目終了
本日の走行距離 144km
つづく