北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
ご本堂でのお参り後は、平安時代後期建立の仏堂「金色堂」へ。

金色堂新覆堂(昭和四十年建設の鉄筋コンクリート造)
覆堂の中は撮影禁止となっておりました。
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦形板葺の金色堂は、
その名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から
縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられており、
覆堂内のガラスケースに収められてます。

屋外に再現された金色堂 (えさし藤原の郷)Wikipediaより
3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像、脇士の観音菩薩、勢至菩薩、
6躯の地蔵菩薩に持国天、増長天の計32躯の仏像を安置され、その下の
須弥壇内には奥州藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、
金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(子孫も)の遺体を
安置する墓堂、廟堂としての性格を有してます。
公式Webから綺麗な「金色堂」を見てください。→こちら
暫し、奥州藤原氏の栄華を偲び、覆堂を出ます。

芭蕉の句
五月雨の降のこしてや光堂


芭蕉翁像

経蔵


平安時代の古材を使い、鎌倉時代に建てられたものと伝わります。

経蔵の奥に佇む天満宮

関山 天満宮由来記
此の天満宮は菅原道真公の第14世孫、菅原為視公が勅命により奥州平泉へ下向逗留の時、出生した乙王丸(後の経蔵別当第12世、行栄和尚)に京都北野天満宮より勧請して授けた天満大自在天神の御真影と観世音菩薩をお祀りしています。又、此の霊地は昔、陸奥守頼清が衣の関を守護し世の平安を祈願するために鎮守府の弓矢を納めて天神地祇を祀り関の神社を造営した地でもある。-案内板より


金色堂覆堂
正応元年 (1288)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきた。近年の調査では金色堂建立後五十年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て、室町次代中期(16世紀)に、現在の形になったものと見なされる。昭和三十八年(1963)、新覆堂の建築にともないこの場所に移築された。
-案内板より


元は「鞘堂」と呼ばれていた、金色堂旧覆堂

金色堂 御朱印
つづく