~北へ~(163)20日目① 一関八幡神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





20日目は、一関八幡神社の参拝から開始です。

      

かつて一関城があった釣山(際館山)に鎮座しております。

           
   
        

            

            


 由来
 当神社は延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(元釣山公園)に陣営を敷き、諏訪の大神(長野諏訪神社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源頼家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折り、田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため伊勢の神官、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神のご神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社です。天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地に奉斎されています。
元禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされています。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものです。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列します。
昭和四六年十二月、社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を焼失してしまいましたが、当寺オイルショックの不況下、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四八年現在の御社殿が再建されました。-公式Webより




 ご祭神は、
誉田別命(ほんだわけのみこと)
-第十五代天皇・応神天皇
 相殿
坂上田村磨(さかのうえのたむらまろ)
-平安時代の武官、陸奥国の蝦夷征圧の功労者
坂上輝定(さかのうえてるさだ)
-陸奥の国に土着した坂上田村麿の子孫     で、ございます。


 拝殿

             


 本殿

   
竹駒神社:ご祭神・倉稲魂命     古岑山、金峰山、古岑神社
由緒
江戸時代、東山天皇の御代 元禄四年(一六九一)九月、一関藩主田村建顯が一関へ赴任した際に、この地に五穀豊穣また商業の発展を願い、それまでの田村家の領地であった岩沼より竹駒稲荷神社を勧請しました。
明治十年、藩士の谷津太郎吉により再建され、現在に至ります。
以来、商売繁盛の神様として市内の商いを生業としている方々により篤く崇敬されています。-公式Webより


      
 八雲神社(左)     
 めおと親子杉(家族杉)(右)
古老が伝えるに
「昔、この場所に一本杉の杉があった。しばらくして根本が分かれて、二本の杉となり夫婦になった。 やがて娘の杉が生まれ、今度はそこへ一本の杉が婿養子にきて、現在の四本杉となったと・・」
※平成22年8月31日、左奥の杉が落雷をうけました。通常であれば粉々になるところですが、現在も右奥の杉がしっかりと支え、葉を茂らせています。
その様子は、家族の強い絆を感じるところです。 なお、古来よりカミナリは神様の来臨とも言われています。-公式Webより


 
手洗水鉢
 元禄十年(1697)、一関藩主田村建顕公が幕府より作州津山城受け取りの上使を命じられ、その大任を果し、家中一同祈願成就を祝い、翌十一年(1698)八幡神社社殿前に奉納した、由緒あるものである。 一関市 -案内板より


御朱印を頂こうと社務所に貼ってあった電話番号にかけると
「遠方に出ているので戻るのは夕方以降になる」との事。
残念だが、先に進むこととしました。




                              つづく