北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
日本100名城の一つ、多賀城址にきております。

多賀城は、奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、
11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった、
古代城柵であります。

創建は、神亀元年(724)、大和朝廷が蝦夷を制圧するため、
軍事的拠点として蝦夷との境界となる松島丘陵の南東部
塩釜丘陵上に按察使大野東人が築城したとされます。

11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点
として機能し、南北朝時代には、後醍醐天皇率いる建武政府に
おいて陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王
(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、多賀城に東北地方、及び
北関東を支配する東北地方の新政府、陸奥将軍府が誕生しました。

振り返り、主道(大路)を見る。
外郭南門まで真っ直ぐな道でつながっているのがよくわかります。

政庁南大路跡説明版

政庁跡


政庁の建物配置と変遷
発掘調査の結果、多賀城は8世紀初めから10世紀中頃まで存続し、その間大きく4回の造営が行われたという。
・第Ⅰ期(724年~762年) 大野東人の創建
・第Ⅱ期(762年~780年) 藤原朝獦の大改修
・第Ⅲ期(780年~869年) 780年の「伊治公呰麻呂の乱」で焼失し、その後復興された。
・第Ⅳ期(869年~10世紀中頃) 869年の陸奥国大地震(貞観地震)で被災、その後復興された。


政庁復元模型
政庁は、多賀城のほぼ中央に位置し、陸奥国府の重要な儀式などを行ったところで、周囲が築地塀で囲まれ、その中心に正殿、東西前方に脇殿が配されている。これは、発掘調査結果に基づき、第Ⅱ期(8世紀後半)の建物について推定復原したものである。―説明版より

多賀城の外郭を囲む塀は高さ4~5mほどの築地塀と材木塀だったらしい。
材木塀は材木を密接して立て並べた塀で、築地塀は土を突き固めて造った
土塀で、屋根がかけられていた。

南辺築地塀の傍から大垣(おおがき)と墨書された土器が発見され、
都と同様の呼ばれかたである事が分かった。
このような高い塀に囲まれた中にありながら、政庁には更に築地塀を
巡らせていた。

政庁は東西103m、南北116mの長方形で、築地塀の内部に
正殿、脇殿、後殿、楼などが計画的に配置されていました。


つづく