~北へ~(156)19日目⑥ 日本100名城 多賀城Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





多賀城では、現在も発掘調査が行われております。



政庁跡から更に北へ進みました。

   

政庁北側入口の説明版より
 特別史跡 多賀城跡 附 寺跡
 多賀城は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。仙台平野の北端に位置しており、南に太平洋を望むことができます。東には国府の港と推定される塩竃の港をひかえるなど、古くから交通の要衝でした。
 今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。多賀城は周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。
 多賀城跡は大正11年10月に多賀城廃寺とともに国の史跡に指定されました。さらに、昭和30年代に実施された発掘調査の成果により、日本の歴史を理解する上で学術上の価値が特に高く、貴重な遺跡として昭和41年4月、国の特別史跡に指定されております。その後も、多賀城跡と多賀城廃寺は、国司館など数回の追加指定が行われ、現在特別史跡の指定面積は約107万6千平方メートルに及びます。
 この多賀城跡を末永く大切に保護するため、多賀城市では、指定地域の買上げを年次計画によって実施するとともに、特別史跡の維持管理を行っています。さらに、宮城県では、宮城県多賀城跡調査研究所を設置し、学術的調査を行い史跡公園として環境整備を継続的に実施しています。 
 多賀城市では、今後も我が国の歴史にとって欠くことのできない、国民の財産であるこの史跡を積極的に保存し、活用を図る所存でおります。
 平成10年3月   多賀城市教育委員会




六月坂地区の一角には「多賀神社」が鎮座しておりました。



看板を見ると「延喜式内の神社」とある。
ちょっと寂しい佇まいですが、掛けられている竹の箍(たが)を通し、
参拝、信仰している方々の姿を見て、少し安堵しました。



外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区
 多賀城東辺の外郭区画施設は、奈良時代と平安時代とでは位置が異なる。東側に走るのが奈良時代、西側に走るのが平安時代の築地塀である。奈良時代の外郭東門は外郭東辺北寄りに建てられるが、宝亀11年(780)の火災で焼失する。平安時代、内に入った位置に築地塀と外郭東門が新たに建てられ、櫓(やぐら)が設けられた。また、この頃、大畑地区の役所も一段と整備された。-説明書より



時代による違いも詳しく説明されてます。



東門が設けられた「旧塩釜街道」を国府方面へ向かい
次なる地・総社へ目指しました。





         
          日本100名城スタンプ
            多賀城(7)





                              つづく