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青葉城本丸に続く、西の丸に鎮座します「宮城縣護國神社」です。

「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた者」を祭神として祀る、
護国神社が、戊辰戦争で、東軍(旧江戸幕府)・奥羽越列藩同盟の
一藩である仙台藩の居城跡に鎮座している事に少々の疑問を感じ
ながら参拝にあがりました。


明治三十七年(1904)、現在地に「招魂社」を建立し、大日本帝国陸軍・
第二師団管下(仙台師管区:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の
戦死者の一部を祀ったのを起源とし、昭和十四年(1939)、内務省令に
より内務大臣指定護国神社となり、「宮城縣護國神社」に改称。

昭和二十年(1945)七月の仙台空襲で社殿を焼失し、神体は市内の
秋保神社・仮宮に遷されました。敗戦後の連合国軍占領期には、
「宮城神社」と称しました。

占領軍が去ると昭和三十二年(1957)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、
昭和三十三年に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築して復興しました。

拝殿

拝殿ない

昭和天皇御製
「城あとの 森のこかげに ひめしやがは うす紫に いま咲きさかる」

鎮魂の泉
この『泉』は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽くされ、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下180メートルの地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮まられますよう作成した。
石組みは、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グアム、サイパン、テニアン、■昌(中国)、占守島(中千島)等御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、さんご礁等を用いて大東亜戦争終結50年を記念し建立した。
平成7年8月15日 -説明板より

特攻勇士之像「あゝ特攻」
航空特別攻撃隊
航空特別攻撃隊は、帝国陸海軍が大東亜戦争末期の危急存亡のとき、己が生命をかえりみずに航空機に爆弾を抱き、敵艦船等に体当たりをし壊滅的打撃を与え、戦況を挽回すべく編成された部隊である。
組織的な作戦では、昭和19年10月フィリピン・レイテ沖海戦で海軍により初めて実施された。
この神風特別攻撃隊は10月25日の出撃で大きな戦果を挙げ、当社御祭神の第一神風特別攻撃隊若桜隊指揮官・海軍少尉・中瀬清久命が散華されて軍神と称えられた。
また、昭和20年4月3日神風特別攻撃隊第三銀河隊・海軍大尉河合達視命(元志波彦神社・塩釜神社宮司河合繁樹氏御子息)が宮崎基地から沖縄南方へ出撃・散華された。
神風は特攻の代名詞となっている。
陸軍の特攻隊は、昭和19年11月フィリピンで大戦果を挙げた富嶽隊などを嚆矢とし、海軍とともに艦船攻撃を始め本土防衛の任にあたった。
昭和20年5月11日第51振武隊隊長・陸軍大尉荒木春雄命(当県出身)が知覧基地から沖縄方面へ出撃、散華された。
沖縄戦では、特攻基地として海軍では鹿屋・串良・国分、陸軍では知覧・万世・都城などから出撃し、大勢の若者たちが大空に散華された。
特攻攻撃期間は約10ヵ月。
特攻の戦没者総数4379名。
内、海軍2535名、陸軍1844名。
この像は、愛する祖国と郷土、そして最愛の人々を護るため散華されたすべての勇士の慰霊と顕彰のため「財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」が製作し、全国52の護国神社へ奉納されたものの一体である。
平成19年10月23日
宮城縣護國神社 -碑文より


御朱印を頂いているとどこからか「軍艦マーチ」が聞こえてきます。
音の方に行ってみると、

英霊顕彰館では、「大日本帝國海軍 軍艦超精密模型展」が、
開催されていました。

全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。

宮城県護国神社 御朱印
つづく