北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
山形縣護國神社参拝に続き訪れたのは、山形城(霞城公園)です。

山形城は、最上氏の祖・斯波兼頼が、延文二年(正平十二・1357)に
築城したと伝えられています。
その後・出羽斯波氏は最上氏を名乗り代々居城し、最上氏11代当主義光の
代に、慶長出羽合戦で得た57万石で大々名となり、その本城となります。

しかし、義光の孫・家信(義俊)の代に、改易となり、その跡に鳥居忠政が
24万石で入部し、本丸・二ノ丸を改築、現在の二ノ丸塁濠はこの時の遺構と
言われています。

鳥居氏の以後、城主は11氏(幕領2回)が頻繁に交替し、最後の城主水野氏は、
僅か5万石で明治維新を迎えました。
では、木造復元された「二ノ丸東大手門」から登城します。



二の丸東大手門説明板
山形城は延文元年(一三五六年)斯波兼頼により、創建されたと伝えられている。現在の山形城跡は、文禄年間(一五九二年~一五九五年)最上義光により拡張され、鳥居忠政の時代(一六二二年~一六二八年)に、ほぼ現在の形に整えられた。 昭和六十一年五月、二ノ丸堀から内側の地域が、近世初期の面影をとどめている全国有数規模の近世城郭として、国の史跡に指定された。 山形城の石垣は、市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、割肌を表面に見せる野石積みで日本でも類を見ない優美で堅固な石垣である。 二ノ丸東大手門は山形の正門である。桝形の南北両側に多聞櫓をもつ独特な形式の桝形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模をもつ、現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参者にして日本古来の建築様式で復原され、平成三年三月に竣工した工期四十五ケ月工費十一億円余。-説明書より

高麗門から櫓門を見る

ここまで来て、気になっていた事がわかりました。
土塀などに「狭間」がないのである。

櫓門の梁

枡形内から見る櫓門




櫓門内部(無料で公開されており、とてもキレイに管理されています)


櫓内から高麗門、大手橋を見る


櫓門の石落とし

やはり復元は木造に限る。
つづく