北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
白石で、城も武家屋敷もめしも満足し、蔵王山系を越えてたどり
着いたのは、山形市村山市に鎮座する「林崎居合神社」です。


「林崎居合神社」は居合の祖、林崎甚助源重信公を祀る神社であります。


天文十一年(1542)林崎甚助は浅野数馬の子として生まれ、
幼名は民治丸といいました。
楯岡氏六代目の楯岡満英に仕えていた甚助の父、浅野数馬源重治は、
天文十六年(1547)熊野明神での囲碁の帰途、坂上主膳(坂一雲斎)の
闇討ちに遭い殺されてしまいます。

民治丸は父の仇討を志し、天文二十三年(1554)、民治丸十三歳にして
楯岡城武芸師範 東根刑部太夫のもと修行に励み、弘治二年(1556)、
林崎大明神(熊野明神)に参籠し祈念した所、神より居合の極意
「神妙秘術の純粋抜刀」の典旨を神授されたという。

永禄二年(1559年)、民治丸は十八歳にして遂に「純粋抜刀」を開眼し、
元服して村名を姓として「林崎甚助源重信」と名乗り、仇討の旅に出た。
そして、永禄四年(1561)、林崎甚助公は京都で仇の坂上主膳を討ち果たし、
本懐を遂げました。

甚助公は帰郷し林崎村の鎮守である「林崎大明神」に刀(信国)を奉納し、
純粋抜刀を「林崎流」と称したという。
神崎(熊野)明神は延久4(1702)遷座したと伝えられ、正安二年(1300)銘の鏡、
応永十九年(1412)銘の鰐口があったといわれます。


社号額 本殿
その後、林崎甚助公は諸国を巡り、武者修行をしながら、門弟の
育成に励み、抜刀を広め、居合道の基礎を確立した。その途中で
加藤清正公に招かれ、加藤家の家臣を指南したとも伝えられる。



掲額殿
林崎新夢想流の伝書には、林崎甚助は塚原卜伝より鹿島新当流も学んだと
伝えており、伝書にも卜伝流剣術の目録が存在しています。
また、鞍馬流剣術の伝書においても林崎甚助が第2代として系譜されている。
他にも多くの流儀を学んだとされています。


林崎甚助公の弟子には、田宮重正先生(田宮流開祖)、
関口氏心先生(関口流開祖)などがおります。


現在も日本唯一の居合神社として参拝者が多く、全国各地の居合道
愛好者が訪れ、林崎甚助公の神前で技を奉納しています。


平成二年、地元大倉小学校では、全国で唯一の小学生による
「居合道クラブ」を発足させ、日々精進しているそうです。


念願の林崎居合神社参拝を終え、サクランボ畑をぬけ本日の旅泊地へ。

本日の旅泊地・山形蔵王PA 車中泊

第17日目終了
本日の走行距離 196km
つづく