北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
18日目は、伊達政宗公の出生地、上杉謙信公が眠る城・米沢城からです。

康暦二年(天授六年・1380)、伊達氏8世宗遠が置賜地方に侵攻し、長井広房を
鎌倉へ追い、米沢は伊達氏の支配下に入りました。以来13世尚宗の代まで、
置賜地方には一族を配置して支配を続けます。

天文11年(1542)「天文の乱」が起こり、14世稙宗は家督を晴宗に譲って隠居、
晴宗は西山桑折城から米沢城に居を移しました。
この後、輝宗、政宗の代に伊達氏は米沢城を居城として南奥羽に確固たる
地位を築き上げ、戦国大名伊達氏としての支配を確立することになります。

政宗公が仙台へ移封した後は、会津を治める蒲生氏の支配下となり、
その後は、越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には
重臣・直江兼続を置きました。

秀吉の死後、豊臣氏への恩義から「直江状」という文書によって弾劾し
徳川氏と対立。結果的に西軍方となった上杉氏は、関ヶ原の戦いには
参戦していないが西軍の敗戦により、置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡
30万石に減封され、米沢城は明治まで米沢藩上杉氏の居城となりました。

慶長13年(1608)景勝は兼続に城の大改修命じ、慶長18年(1613)輪郭式の
縄張りを持つ城が完成します。

本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に謙信公の祀る御堂を
建て、天守の代わりに北東と北西に三層の隅櫓(独立式層塔型3重3階)を
2基置き、北東(丑寅)三重櫓を天守の代用としました。

春日山城の麓にあった関東管領邸である御館と共通した特徴である、
石垣は少なく土塁を多用した造りで、上杉氏の本拠地としての伝統的な
城館建築の造りでです。

現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、内堀東側には上杉神社の
摂社・上杉鷹山公をお祀りする松岬神社が鎮座しております。
本丸跡東側に架かる舞鶴橋を渡り、上杉神社の正面参道を進みます。


参道右手の「上杉謙信公の像」

その横には「上杉景勝公と直江兼続の主従像」

反対側の土塁脇に建つ石碑「伊達政宗公生誕の地」
永禄十年(1567)、政宗公はここ米沢城で産まれました。


上杉鷹山公の立像と名言 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり」


上杉神社社号碑前に建つ「上杉謙信公家訓十六ヶ条」
宝在心
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず
つづく