北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
戊辰戦争の際、薩長連合に対抗するための奧羽越列藩同盟(三十一藩)の
盟約が結ばれ、公議府が置かれた白石城に登城しております。

東口門から来ると、Uターンする形で門をくぐります。

大手一ノ御門
一ノ門をぬけると、筋違い虎口となっておりました。

大手二ノ御門
大手門から本丸に上がると、大櫓(天守)は、後ろとなります。




土塀狭間から大手門枡形ないを見る
大手門をぬけた先(現在は広場)には当時、本丸御殿が建っておりました。


本丸御殿跡から見た、大櫓(天守)東面と鐘堂


鐘堂
白石城鐘堂は、その脇に物日(祝いの日)に片倉家の白地黒鐘の大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、発掘調査の結果等により、三階櫓(天守)東側のこの突出平場に建っていたと考えられる。 もとの鐘は文正元年(1466)に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあった。東昌寺は伊達家四世政依が弘安年中(1278~88)に建立した寺で現在仙台市に移っている。何時の時代にか白石城に入って、非常の際に撞き鳴らされていた。また毎年七月、城回りの土手と堀の清掃の時には、この鐘を鳴らした。朝八時に七つ撞いて仕事を始め、九時に五つ、十時に三つで終わる。侍と城下にいる足軽、その他扶持を受けている者が総出で堀払いをした。長年使用したため、ひびが入ったので、寛文元年(1661)、片倉三代景長が仙台の鋳物師早山彌五助に命じて再鋳した。それが戊辰戦争後、明治三年(1870)白石城払い下げの時、ゆかりを知って伊達郡桑折町の傳来寺で買い求め、その由来を新たに記して使用していた。太平洋戦争中、古鐘であるといって保存させたので供出をまぬがれて傳来寺境内に現存している。-説明板より

大櫓(天守)南面

本丸西側にある裏御門跡(当時は二階門と枡形からなっていた)

辰巳櫓跡
木造復元された大櫓(天守)に入ります。
つづく