~北へ~(130)16日目④ 日本100名城 二本松城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





二本松城へは、二本松神社からさらに上って行き、
山を一つ越えると復元されている区画(霞ヶ城公園)に到着。



二本松城の入り口(藩庁の前)にあたる場所には、、二本松藩第七代
藩主丹羽高寛公が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、藩士の
戒めとして設置した石碑がございます。



爾俸爾禄   なんじのほう なんじのろくは
民膏民脂   たみのこう  たみのしなり
下民易虐   かみんは しいたげやすきも
上天難欺   じょうてんは あざむきがたし

寛延己巳之
年春三月     寛延二年(1749年4月から5月)     

*原本は縦書き



碑文の意は、
「お前のいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。
下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない」

 

解釈
「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたたまものより
得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。
この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」




碑の前のPに車を停め、城址(公園)ないへ。



二本松城は麓の藩庁・居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた
梯郭式の平山城で、江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城です。



二本松城の歴史は古く、室町時代初期、室町幕府より奥州探題に任ぜ
られた畠山高国が塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、地名を二本松と
改称し、畠山氏七代当主・二本松満泰が嘉吉年間(1441-1443)に、この
地に二本松城を築いたのが初めとされております。



陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受け、
天正十四年(1586)に政宗公が進軍すると内通者が出たため、相馬義胤の
口添えにより二本松城は開城、二本松氏は滅亡しました。



その後は、伊達政宗公家臣 片倉景綱→同じく伊達成実→会津若松城主
蒲生氏郷家臣 蒲生郷成→同じく町野重仍→上杉景勝家臣 下条忠親→
再び蒲生秀行家臣 梅原弥左衛門→同じく門屋勘右衛門→同じく本山豊前
→同じく本山河内→同じく外池信濃守→加藤嘉明家臣 松下重綱→次男・
加藤明利→丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城。以後、明治維新まで
丹羽氏の居城となりました。



二本松少年隊
 慶応四年(一八六八)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣、七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
 この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
 なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。-案内板より


 

会津の「白虎隊」は有名ですが、他の各藩でも状況は同じですね。
こちらの少年兵は勇敢に戦って散ったようですが…


          




                              つづく