~北へ~(119)14日目⑤ 日本100名城 鶴ヶ城(会津若松城)Ⅴ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





戊辰戦争・会津戦争籠城戦のときは、一昼夜に二千五百発余の砲弾が撃ち込まれたとも伝わる激戦地・鶴ヶ城(会津若松城)にきております。

          

再び、埋門跡を通って本丸に上がり、



RC造外観復興 天守の内部に入ります。

         
          「お城ボくん(おしろぼくん)」

      

天守台の石垣をくり抜いた入口から入城します。



入城した先(天守台石垣の内部)には蔵が作られ「穴蔵」と呼ばれています。
通常は一階であるが、鶴ヶ城は二階の仕組みで、此処には常時千七百余俵の
塩が蓄えられていました。海を持たない山国の会津で、塩は特に貴重であり、
籠城戦ではかけがえのない食料品でありす。
塩の他には、良く煮て十分に乾燥させたタニシが蓄えられていたと云わります。

 

天守台の石垣は、最初の天守建築の際(蒲生氏時代)に築かれたものだが
内側の石垣は、加藤氏時代(層塔型天守建築の際)に積み直している様だ。

            

RC造りだが、内部はコンクリートむき出しではなく、木が多用されており、
御殿の内部を模した造りなどになっていた。



大政奉還:慶応3年10月14日(1867年11月9日)徳川幕府が政権返上
会津戦争:慶応4年8月23日(1868年10月8日)に若松城下
明治時代(政府)・明治改元:明治元年旧9月8日(1868年10月23日)
の事実をパネルの説明をしている人に確認したうえで、表記の「新政府軍」は正確性を欠いており、「西軍や倒幕軍」ではないか?と質問したが「多くの方が見に来るので」という訳の分からない返答だった。



 天守最上階からの眺め

      
 北虎口                    走長屋・干飯櫓




                              つづく