北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
戊辰戦争・会津戦争籠城戦のときは、一昼夜に二千五百発余の砲弾が撃ち込まれたとも伝わる激戦地・鶴ヶ城(会津若松城)にきております。

再び、埋門跡を通って本丸に上がり、

RC造外観復興 天守の内部に入ります。

「お城ボくん(おしろぼくん)」


天守台の石垣をくり抜いた入口から入城します。

入城した先(天守台石垣の内部)には蔵が作られ「穴蔵」と呼ばれています。
通常は一階であるが、鶴ヶ城は二階の仕組みで、此処には常時千七百余俵の
塩が蓄えられていました。海を持たない山国の会津で、塩は特に貴重であり、
籠城戦ではかけがえのない食料品でありす。
塩の他には、良く煮て十分に乾燥させたタニシが蓄えられていたと云わります。


天守台の石垣は、最初の天守建築の際(蒲生氏時代)に築かれたものだが
内側の石垣は、加藤氏時代(層塔型天守建築の際)に積み直している様だ。

RC造りだが、内部はコンクリートむき出しではなく、木が多用されており、
御殿の内部を模した造りなどになっていた。

大政奉還:慶応3年10月14日(1867年11月9日)徳川幕府が政権返上
会津戦争:慶応4年8月23日(1868年10月8日)に若松城下
明治時代(政府)・明治改元:明治元年旧9月8日(1868年10月23日)
の事実をパネルの説明をしている人に確認したうえで、表記の「新政府軍」は正確性を欠いており、「西軍や倒幕軍」ではないか?と質問したが「多くの方が見に来るので」という訳の分からない返答だった。

天守最上階からの眺め


北虎口 走長屋・干飯櫓
つづく