北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
慶応四年(1868) 戊辰戦争・会津戦争にて会津勢は籠城。1か月の間持ち
こたえ、板垣退助勢に薩摩の援軍の助けをかりても遂に落ちなかった名城・
鶴ヶ城(会津若松城)に来ております。

鉄門(くろがねもん)を通り、本丸北及び西側を取り囲む帯郭を回ってみます。


表門(鉄門 くろがねもん)
帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門である。
扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門の名がつけられている。
門の石垣の工法は「切込ハギ」と呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法となっている。-案内板より

西側帯郭から見た表門(鉄門 くろがねもん)

帯郭側から見た天守

鐘撞堂(かねつきどう):
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は延亨四年(一七四七年)若松の鋳工早山掃部介安次(そうやまかもんのすけやすつぐ)等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。
戊辰の役(一八六八年)には、ここに西軍の砲火が集中し、時守相ついで斃れたにもかかわらず、開城の最期まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。-案内板より

帯郭から見た西側枡形虎口


現在、西の出丸は駐車場になってます。


西側から見た天守 天守北西側

帯郭から見た北側枡形虎口・太鼓門跡


太鼓門の鏡石。男女が抱き合ってキスしているように見えませんか。

太鼓門
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓と呼ばれる櫓が建てられ、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから太鼓門と呼ばれた。-案内板より


弾痕跡?が残る石垣

武者走り
この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓 (やぐら) などへ簡単に 「昇り」 「降り」 ができるように造られています。
V字型に造られており 「武者走り」 とも呼ばれ鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。
また、地表面での占有面積も少なくすみ、石積みについての当時の知恵がうかがえます。-案内板より

つづく