北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
廊下橋を渡り、枡形(食い違い)虎口をぬけると、

左手には長い石垣が続きます。



本丸埋門
天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋うずみ門の形態をとっていた。
大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)の加藤明成による改築後は裏門となっている。
本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。-案内板より
ど~ん。

美しい天守(層塔型5重5階)です。
が、RC造外観復興です。(現存は 石垣、土塁、堀。後は再建築)

葦名氏時代、伊達氏時代は前身の中世城郭であり、
「黒川城」と呼ばれていました。

その後、蒲生氏郷公によって天守を持つ近代城郭として築城。

その後は上杉氏が入るも、関ヶ原で西軍となったことで戦後に米沢へ移封、
蒲生氏が戻るが、三代藩主が世継無しで急死し伊予松山へ移封となり、
加藤氏を経て、200年に及ぶ保科氏(会津松平氏)居城となりました。


昭和40年に外観復興された天守の屋根瓦は黒瓦だでしたが、
平成23年3月に明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元されました。

現在は全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが
埋め込まれている鯱が復元天守棟上にあがってます。

この鯱ですが明治初年の古写真には確認できません。これを理由に
取り外すべきだという意見がありましたが、江戸時代の絵図には
鯱が描かれているものもあり、戊辰戦争時の砲弾で落ちた可能性も
あるとの理由で現在の天守には鯱があがっているとの事です。

現在は開けた芝生の広場ですが、往時はここに本丸御殿が建っていた。

元々は東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式の縄張であり、
三の丸側が大手でありました。(今回の登城順路)

その後、加藤明成による改築時頃に城下の街道の整備により北側を
大手口とし、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張し
現在の縄張となります。

天守から続く、北走長屋と鉄門(加藤明成による改築後は表門)
いづれも木造復元

南走長屋と干飯櫓(木造復元)
干飯櫓は城内にあった十一の二重櫓の中で一番大きく天守閣につながる重要な位置に建てられた櫓である。会津藩の文献資料である「家世実紀」では「糒櫓」とも書かれており、米を備えると書くその字のとおり、糒(干飯)などの食糧の貯蔵庫として使われていた。-復元資料より
つづく