~北へ~(65)8日目① 赤城護国神社・津久田赤城神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


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祖国・日本を巡る旅「北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~」も
2週目に突入。本日最初の地は「赤城護国神社/津久田赤城神社」です。

 

社伝によりますと、大同4年(809)、もとの社があった大洞から古い祠を
津久田に移して赤城神社としてお祭りするが、建仁元年(1201)、大きな
天候異変がおきて、豪雨により、お宮が水没。
占いにより現在の地(津久田)に社をつくり、鏡を納めると天候も回復し
たので、これ以降は鏡の森大鎮守(だいちんじゅ)として祭ってきた。
鎌倉時代には、長尾氏の白井城築城のおり、鬼門よけとして大切にされ、
社もたびたび整備されり、社領が寄進されたりした。

室町時代の寛正7年(1460)のはじめに、流行り病で多くの人が亡くなった
時に、長尾氏は神様のお告げを得て、大己貴命(おおなむちのみこと・
大国主の命・大黒様、国造り・農業・商業・医療の神様)、少彦名命
(すくなひこなのみこと・恵比寿様、健康を守る神様)を合祀した。

               

          

   

                

    

  

関口文治郎(文次郎)
1731(享保16)~1807(文化4)。彫刻師。勢多郡上田沢沢入(現・
桐生市黒保根町)に生まれる。隣村花輪村に住む石原吟八郎の門人となり、武州妻
沼聖天宮の造営に当たって師匠を手伝う。1752(宝暦2)年、妻沼聖天宮本殿
の完成は弟子の立場であったが、師匠の片腕となるほどに技術を高めた。師匠から
独立して在郷の彫工を育てることに務め、上田沢村に彫刻師集団を創設した。文治
郎を棟梁とする彫刻の集団は郷の遠近にすばらしい作品を現代に残している。幕府
より武江公儀彫刻師の名を許され、日光東照宮の修繕を命ぜられる。代表的なもの
として妻沼市聖天宮の本殿・幣殿・拝殿、秩父大滝三峰十一面堂の本殿・拝殿、榛
名町の岩井堂観音、伊那長谷村の熱田神宮、高崎市の山名八幡宮、宮城村の金剛寺、
箕郷町の赤城若御子神社、桐生市の天満宮、黒保根村の栗生神社等があり、榛名町
の榛名神社は最期の作品である。-新世紀・ぐんま郷土史辞典より


          

 

           

                 



                              つづく