~北へ~(48)6日目③ 新御殿(旧真田邸)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


        北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





松代城の南、徒歩数分のところに、松代城内の諸建築のうち、
唯一現存する松代城 新御殿(旧真田邸)がございます。

       

新御殿は、文久2年(1862)の参勤交代の緩和(徳川家茂がおこなった
「文久の改革」)により、九代藩主・真田幸教の母(義母)お貞の方が
松代に帰るにあたっての住居(隠居所)として建てられ、維新後は
真田家の私邸となり、昭和41年(1966)に松代町に寄贈されました。




         

               



史跡 新御殿(真田邸)
 新御殿は、幕末の元治元年(1864)、松代藩9代藩主・真田幸教(ゆきのり)によって建てられました。当初は幸教の義母・貞松院(ていしょういん)の住居でしたが、明治以降は真田家の私的住居となったことから、「真田邸」とも呼ばれています。
 御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。ほかにも真田家伝来の大名道具が納められていた複数の土蔵や、表門、往時の姿を残す庭園など、簡素ながらも全体が残っている「御殿建築」は、全国にもほとんど例がなく、非常に貴重なものです。-案内板より



では、表玄関より上がります。



松代城址にはあまり人が居ませんでしたが、ここは結構流行ってました。

 

     
                    「表」から「奥」を見る。(杉戸が見えます)
「表」と「奥」
御殿を含む武家屋敷の内部は、「表」と「奥」という二つの機能から成り立っています。
「表」は公的な行事や儀式、接客などが行われる空間であり、
一方、「奥」は私的な日常生活のための空間でした。

ここ真田邸にも、「表」と「裏」の区別がありました。
双方の間には通常のふすまではなく杉戸が立てられ、視覚的に、また心理的にも
二つの空間をはっきりと分断していました。
また、それぞれの空間では異なる唐紙が使い分けられ、
部屋のしつらえも違っています。
こうした区別を頭に置くことによって、当時の暮らしぶりを想像することができます。
-説明板より


  

当初は「お祝いの間」と呼ばれていました。
年中行事や、訪問客との対面が行われた部屋と考えられています。
御殿の中心となる部屋で、庭園の眺めが最も良い場所です。-説明板より



表座敷


     
      表座敷 食事

         
  表座敷から眺める庭園(下座)   奥の山が借景となって良いですなぁ



 表座敷から眺める庭園(上座)


    
       釘隠し色々
              




        



                              つづく