2024年7月26日(金)、石川県金沢市内にあるカトリック広坂教会の信者であるヤマモト氏からお便りが届きました。
※ このヤマモト氏は、私が石川県金沢市内の大学に通っていた頃(今から約40年前のこと)に所属していた青年会の会長をされていた方で、当時は既に私よりも10歳以上でしたので現在は70歳近いと思います。このヤマモト氏から受けた影響により、現在の私は新しい日本のカトリック教会のシステムに納得が行かず、数か月前からラテン語によるトリエント・ミサに通うようになったのでした。
実は、このヤマモト氏から届いたお便りは、私が1か月ほど前に書いた手紙のお返事になります。数か月前から私が神田教会で行われているラテン語によるトリエント・ミサに通うようになったことについて書いた、そのお返事ですね。今でも、ヤマモト氏は相変わらずあの頃と同じ思想をお持ちで安心しました。
※ 現在の日本のカトリック教会に対する私の考え方については、2024年4月7日(日)の記事『[正統カトリック聖母の御国] について考える』に書きましたので、ご興味がおありの方は読んでみられて下さい。
まず、石川県金沢市内にあるカトリック広坂教会の信者であるヤマモト氏の現在の日本のカトリック教会に対するお考えを読み易いように活字化したいと思います。
<ベタ打ち始め>
暑中お見舞い申し上げます。ご無沙汰致しております。
貴女は、私よりも、信仰深くなっていて、うれしく思います。今の教会はなじめないです。
言葉は(ミサ中)、昔の言い方を心で唱えています。何か、美しく、きれいに、人々に合わせて、より、グローバルに(横もじは嫌いですが)、と言われていると思っています。
今の教会は、共産主義が入って来ていると思うのです。
中道なのに保守とみられる左側の傾向です。
教会では、右翼と見做されている私です。
私は今、行動で教会に奉仕しています。
お墓直しもボランティアもそうです。修繕屋です。
心は常に神との対話です。
暑さに気を付けてお過し下さい。
<ベタ打ち終わり>
※ 日本カトリック中央協議会とヨーロッパのカトリック教会が進めているシノドスの目指している方向が若干左派っぽく、それでも日本とヨーロッパでのシノドスの内容が異なっているような気がしますが、どちらにせよ、このままカトリック教会の指導者(ローマ教皇よりも、むしろ、その下で動いている聖職者たち)に無言で連いて行っても大丈夫なのか?と心配になっているカトリック信者が増えたような気がしています。
そこに再び登場したのが、聖ピオ10世会から分派した普遍的で伝統的なラテン語によるトリエント・ミサを推し進める修道会な訳ですが、それを正当化するかのように現在のローマ教皇フランシスコが「その後2009年に破門は取り消され、教皇庁との関係修復に向けて現在交渉中である。2015年、教皇フランシスコは、「誰も排除しない」として、いつくしみの聖年期間中の聖ピオ十世会司祭のゆるしの秘跡を有効とする声明を出した。(日本語ウィキ「聖ピオ十世会」より)」という声明を出されました。
恐らく、今後の日本のカトリック教会では、左右二分化されることになると思います。昭和時代からのカトリック信者たちが右派になり、平成時代後期以降に洗礼を受けてカトリック信者になった人々が何も疑問も持たずに言われるがまま左派に行ってしまうのではないかと予想しています。
それから考えると、大都市とは異なり日本の地方都市では新しく洗礼を受けてカトリック信者になろうとする日本人が少ない為、昭和時代から引き続き50年以上古いカトリック信者だけで構成されている右派の教会も多いのではないかと思います。
そもそも、平成時代後期以降に洗礼を受けてカトリック信者になった人々は右と左の区別なんてあったのか?と驚かれると思います、それまでの過去のカトリック教会をご存知ないので。
※ 簡単な言い方をすれば、数年前からカトリック信者の離婚や再婚、同性愛者同士の結婚も容認している国が増えつつあるのが左派なのだと思います。それとは逆に伝統的な昔からのやり方を支持しているのが右派なのだと思います。因みに、私の場合、右派に属しています。そして、プロテスタント教会的に自由主義神学により聖書にある記述を事実ではない(使徒継承としての聖ペトロが最初のローマ教皇であることを無視している為)単なる物語として捉えているのも左派の特徴なのだと思います。
個人的には、私の知る限りでは、私のカトリック信者の知人の殆どが現在の日本カトリック協議会によって書き換えられた新しいシステムが気に食わないとの意見を示しています。そして、この『オプス・デイのグレゴリオ聖歌司教ミサ』のブログ記事のコメントにも書かれてあるように、これからの日本のカトリック教会の行方を不安に思っていらっしゃる方が多いことを知りました。
※ そもそも、日本カトリック協議会によって聖体拝領の前のホザンナで跪いて頭を下げるシーンが省略されてしまったことが残念です。それは日本だけで外国のカトリック教会では現在でもホザンナで跪いています。そして、最近になってミサ中に歌う讃美歌まで簡略化されてしまったことが残念過ぎて納得が行かないです。
エキュメニズムとは言っても、何故に宗教改革で二分化されて中道のバランスを保ちながら生きてきたカトリック教会が今更になってプロテスタント教会の真似をしなければならないのでしょうか?
こんなことを言っては大変申し訳ないのですが、日本カトリック協議会の代表者の方というのは(誰とは言いませんが)、日本のおバカな政治家に似ていませんか?尖閣諸島が奪われそうになっても「はい、どうぞ!」、プロテスタント教会の典礼を真似して下さい!と言われれば「はい、どうぞ!」と平和ボケしているというか、祖先が守り続けてきたカトリック教会の伝統を守り続ける根性というか、カトリック信者としての自尊心が欠落しているのではないか?と思うほどに「はい、どうぞ!」が多い過ぎるような気がします。
2023年9月16日(東京教区の司教総代理(補佐司教)のアンドレア・レンボ補佐司教さまが、事実上の司教さまとして、カトリック教会の歴史と伝統を知っているヨーロッパ人として日本のカトリック教会を立て直して下さることと期待している信者も多いのではないかと思います。
カトリック教会の平信徒の方々のご意見を抜粋してご紹介します。
「私も日本のカトリック教会の行方を不安に思っている信徒の一人です。
信徒の聖体奉仕者が聖体拝領の時未信者のかたに祝福を授けていたのには度肝を抜かれました。
司祭の手は祝別されているからこそ聖体に触れたり祝福ができるのに、これは一体何なのでしょう?
うちの教会では聖体拝領が終わったあとのカリスとパテナを洗ったり片付けるのも侍者がやって神父様は後ろで座っています。それを侍者がやる意味って、何なのでしょう?洗う前の御血と御体が触れた聖具にさわっていいのは司祭だけなのに。」
「長い間、私は、日本のカトリック教会を導く司教様がたに対し疑心暗鬼でしたが、前田枢機卿様、酒井司教様の誕生というイベントは、信頼を取り戻す大きな転換点でした。
すでに大阪教区では、「信徒の臨時の聖体奉仕」に対して役割と権限が明確にされ、聖体奉仕者が祝福をおこなうことはありません。
日本の教会は、本来の正しい姿にゆっくりと歩み始めたのかもしれません。
典礼においても本来の正しいあり方に対して、まだまだ刷新と言う名の破壊を行おうとする動きが起きることもあるかもしれないですが、そういう動きに対しては拒絶をし守りぬかなければならないと思います。」
「問題の根は、日本の教会が伝統色を排除してきたところにあると思います。こと典礼に関してのみ言えば、聖ピオ十世会に行く人の気持ちも理解できないこともないです。
あくまで「典礼に対する心情としては」ですが・・・」