(画像提供:NHKニュース 石川県志賀町で震度5弱 地震 (18:40))

 

2024年1月1日(月)の午後6時頃に能登半島で起きた地震について考えていました。未だに能登半島では余震が続いておりテレビの地震速報で伝えられるところによると、震源地が「志賀町」と表示されていることがあります。そして、その志賀町には志賀原子力発電所があります。ニュースでは「震度7の志賀原発で変圧器の配管損傷、油漏れ 火災は発生せず 日本海側のほかの原発で異常やけが人なし」と伝えられており問題がないとのことですが、あの時のことを考えると志賀原子力発電所建設抗議活動に参加した自分が正しかったと思いました。

 

 

 

そして、あの頃というのは・・・、私が石川県金沢市内にある北陸大学に通っていた頃のことだと思います。個人的には、その頃も私はドイツ語が得意で第2外国語でドイツ語を受講していた際に担当して下さっていた田村光彰教授と仲が良く、私と田村光彰教授の関係は学生と先生というよりも教授と助手というか弟子のような関係でした。それで私は田村光彰教授を尊敬する余り色々な場所に連いて行きました。将来的には、私もこの北陸大学でドイツ語講師になりたいと思っていましたが、私が北ドイツのビーレフェルト大学の "Deutsch als Fremdsprache (DAF)" というドイツ語教師養成学部(修士課程)に在学している最中に北陸大学の外国学部がなくなり、第2外国語のドイツ語もなくなってしまったので北陸大学に戻ることができず残念でした。まあ~、私立大学なので仕方がないです。

 

下差し 2013年8月のお盆休みに金沢市内のカフェで撮影しました。左の男性が田村光彰教授で右側が私の親友の史奈子さんです。この史奈子さんについては過去の記事「正月2日の最初の新幹線で戻りました」でお伝えしました。本日、無事に連絡が取れました。

 

 

下差し 田村光彰教授が書かれた本「ユダヤ人を救った外交官ラウル・ワレンベルク」に私の名前と私へのメッセージを書いて頂きました。

 

 

下差し 田村光彰教授が書かれた本「ユダヤ人を救った外交官ラウル・ワレンベルク」を無料で私に送って下さいました。

 

 

 

その当時、田村光彰教授はドイツの政党「緑の党」を支持され、志賀原子力発電所建設抗議活動グループのメンバーのお一人でした。そして、その田村光彰教授の親友が私が通っていたカトリック広坂教会で事務員をされていた木越邦子女史でした。木越邦子女史も田村光彰教授の弟子ということで私を可愛がって下さいました。そのようなことがあり、いつしか私も志賀原子力発電所建設抗議活動家の方々と共に行動するようになったのでした。

 

下差し 木越邦子女史、2013年8月のお盆休みにカトリック広坂教会で行われたセミナーに参加した際に撮影しました。

 

 

下差し 木越邦子女史が書かれた著書「幕末・明治期キリスト者群像」です。これは自分で買いました。

 

 

 

恐らく、ご親切にもここまで読んで下さった方であれば「一体、だから何なの?何を語りたいの?」と思われるかも知れません。

 

結局のところ、只、今の私が思うのは、志賀原子力発電所建設抗議活動グループのメンバーとして裁判に負けたことが悔しかったということです。だって、あの頃の私たちは既に志賀町には活断層があるということを知っていましたからね。どちらにせよ、どの時代になっても日本の政治家って役に立たない奴ばかりですが。

 

今でも私が覚えているのは・・・、金沢市内の小料理店のお座敷で志賀原子力発電所建設抗議活動家のメンバーが集まって共に食事をした後に全員で「明日は、手弁当ですから頑張りましょう!」と言ってエイエイオーをしたことです。当時学生だった私は「手弁当」って何のことなのか知りませんでしたが、弁当を持ってまで裁判所へ行きたくないという気持ちがあって手弁当には参加しませんでした。でも、今になって、実際に能登半島で地震が起きたので改めて思うんですよね、私たちは正しかったと。

 

 

下差し 現在の志賀町の被害状況について。今後の再び起こる震度7レベルの地震で志賀原発に問題がなければ良いのですが。

 

 

 

 

下差し 2024年のお正月に帰省した際、私の部屋の本棚にあった北陸大学の卒業アルバムです。ちょっと志賀原子力発電所のことについて書きたいと思い撮影してきました。

 

 

下差し 私が北陸大学に入学したのが1987年で昭和時代でした。現在、北陸大学には外国語学部はありませんが。

 

 

下差し 田村光彰教授がドイツの政党「緑の党」を支持されていたこともあり、私も「緑の党」がカッコイイと思っていました。「毎日さっそうと風を切り、自転車で香林坊まで通っていたエコロジー少女、梅ちゃんを忘れないで下さい。」と書きました。

 

 

下差し ドイツ人女性って男っぽく頭の良い人が多いので、個人的には「緑の党」の党首であったペトラ・ケリー女史(Petra Kelly)を目指していました。

 

因みに、今回の能登半島大地震で被害があった穴水町や珠洲市にご実家がある学生もいました。私の左側2番目の女性が穴水町出身でしたね。

 

 

下差し 序に、こちらは私の小学校の卒業アルバムです。私が中学校に入学したのが1981年のことでした。

 

 

下差し 6年1組の生徒全員で撮影しました。風が強い日だった為、表情がしかめっ面になっています。

 

 

下差し 6年1組の生徒たちが自分の友達ついて似顔絵と共に書いています。

 

 

下差し 私のお友達だった遠藤直子ちゃんが、「ひょうきんで、英語・ドイツ語がうまい」と私について書いて下さいました。遠藤直子ちゃんについて書いた生徒はまた別の女子生徒ですね。

 

 

下差し 小学生の頃に好きだった言葉は「世界」でした。その当時、「世界」という単語がついたテレビ番組は全て観ていました。特に「兼高かおる 世界の旅」が好きでした。将来、兼高かおるさんのような「ふしぎ発見!」のレポーターにになりたいと思っていました。

 

 

下差し 私が小学生の頃に「ど根性ガエル」というテレビ番組が放送されていて、私のあだ名は「梅さん」でした。

 

 

下差し 小学生の頃からドイツが好きで、学校の図書室にあるドイツやヨーロッパ関連の本を全て読みました。特に歴史本が好きでヨーロッパの第二次世界大戦までの歴史について頭の中に叩き込みました。ホロコーストについて小学生の私は肯定していましたが、その時の担任だった先生に「大人になったら分かるよ!」と言われたのを今でも覚えています。