門田博光 | うまとらたけのページだよん

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日々感じていることを書いています。野球シーズンだと阪神タイガースと高校野球の話題が多くなります。

門田博光さんがNHKEテレの番組に特集されていた。
題名が「ある野球人の死~門田博光とその時代~」で、その亡くなり方がクローズアップされた。

門田さんの数々の過去の映像で、都市対抗野球のものを初めて拝見。後楽園球場のスコアボードが手書きのはめ込み式でしかもカラー。
自分が物覚えがついた時の同球場のスコアボードは電光式だったので、とても貴重な映像でした。

南海に入団時の監督が選手を兼ねた野村克也さん。
門田さんは、野村さんのことを「19番」と呼んでいた。これは嫌っていた証拠。
ホームランのうち損ないがヒットだと考える門田さんが頑固で、野村さんの言うことは聞かなかった。
野村さんがチームを去って以降、ホームランを打つことをさらに追求。
結果的に南海最後の年になったが、40歳でもホームラン王となり「不惑のホームラン王」とあだ名された。

昭和の時代。個人と個人のライバル意識が強く、阪急の山田、ロッテの村田等の同年代のエースを打ち崩すことに固執。
平成になってからのオリックス、ダイエー時代は20も年下の近鉄の野茂を打つことに固執していた。
今は、日本代表が増えて、選手同士が仲が良すぎるようになって、個々のライバル意識が減っているのが、残念である。

門田さん、人付き合いが苦手、嫌いなのか、晩年は野球の仕事はせず、兵庫県の山の中で一人暮らし。
大酒飲みの影響か糖尿病を患い、一人で誰にも看取られずに亡くなっていた。
これだけの選手が孤独死ってのが虚しい反面、晩年はマイペースで過ごして幸せだったのかとも感じました。

改めて、門田博光さんのご冥福をお祈りします。