ネットサーフィンで見つけた面白い替え歌。 BIGBANGの「ガラガラGO」がオリジナル歌の 「のどカラカラYO」
https://www.youtube.com/watch?v=zNtVMc0tVIU
「ガラガラGO」も一緒に聞いてほしいです。 歌い手の たすくこま さん歌の感じをBIGBANGに近づけています。 声もジヨンとタプの感じに近い! 替え歌されるとファンとしてはムカつくかな~と思っていましたが たすくこま さんはBIGBANGへの愛を感じるので、素直に楽しい変え歌として 聴けます。
ここから続き~。

家族問題から楽園村を見ていくと、また不思議なものが見えてきます。

ここに来る子供の多くが、行きたくないのに嫌々来ています。

出発するときに子供は拒否反応を示すそうです、小学生でも泣くんです。

うちの子どもは、喜んでノリノリ「牛っ、う~し。」と言いながらでいくので、

その感覚がよく分からなかったそうです。

だから、「あなたはなんで泣いているの?」と聞いたそうです。

そしたら「私をこんな辺鄙なところに連れて来るなんてお母さんは私が嫌いだからだ。

と思ったら悲しくなった。」と答えてくれたそうです。普段は寄宿舎から学校に通っている

その子はせっかくの春休みも辺鄙なところに合宿に連れてこられて、親との過ごす時間を

失っていくのが悲しいんでしょう。

その子は来たら来たで楽しんでいるんですけど。寂しさは拭えないのかもしれません。

でも、その一方で閉じた家庭の中で親の過干渉や、抑圧、で身動きが取れなくなって

悲しんでいる子供はいるんです。

村の外にはいます。身体を壊してしまって過食障害になった有名人も

いますね。

子供は寄宿舎から通い親との時間も少なく、地域で子育てをしているため家族の関係が

開放的すぎるヤマギシと、完全に閉じた親が子にべったりで過剰に関わり

暮らしている家族。どちらにも「私は嫌われている。」という感情をもっている子供がいると

いうのは何だか不思議な感じがします。

と同時にどちらにも満ち足りている子供も一定数いるということなんでしょうけど。

悲しいと言う気持ちから見ると、どちらも親の思想を子供に押し付けられている

という意味では同じなのかもしれません。

親に有無も言わさず信仰を押し付けられる子供の気持ちは、私もわかります。

信仰に対する愛情なのか自分に向けられている愛情なのか、子供は敏感に

理解しますから。


そうなると親と過ごす時間の量はあまり関係ないのかな?と思ったりもします。

働いていない親と、働いている親、子供を構える時間とお金に余裕がある親と

そうじゃない親、どちらにも自分は愛されていると感じる子供と

嫌われているという感覚になる子供がいるという事なのでしょうか?

生まれ順の観点も足していくとそうなのかな?と思えてきます。

真ん中っ子の視点です。自分は差別されていると感じるのでしょうか?

過干渉とされる子供と、干渉不足とされる子供みんなが同じところで立ち止まっている

感じがしてなんだか不思議になります。自分は愛されていないのかも。

こういう干渉される量に納得に行かない子供たちが子供の時にに双方の話を聞いたり

他方の生活を経験したりするとなにか気持ちの変化があるのかな?

少なくとも全然別の生き方をしている子供がいるんだ。そして同じ気持ちで立ち止まっている

と知ることだけでも楽になるのかな?

過ごす時間ではない何かが見つかるのかな?見つからないのかな?

そもそもあるのか?ないのか?

こっちの話はますます自分の中でこんがらがって、今回もやっぱりうまく言葉にできません。

まあ、少なくともうちの子供が気に入っているうちは楽園村に通わせてみてもいいかなと

思います、そこで私も1人で考えてみようかな?

幸い、楽園村内では子供に信仰を押し付けていないようだから。

ここの人が使っている教団の言葉「研鑽」は子供にはミーティングと言っていたり

内容も遊びのレクリエーションの確認だけのようだし。

ヘンな歌を歌わされるけど歌詞は「晴れたら種を植えよう。」みたいな農民の歌だし。

最初はうわー宗教だ~~とビビりまくりでしたが、

あんまり宗教団体の感じがしないから、1年遠くから見ていられました。

逆に1年見てもどの宗派から発生した新宗教なのかよく分からない状態だし。

仏像も十字架も形式だった祈りもないし、ヒントを探すことができない。

まあ子供を預ける分にはそれがいいのかなと思っています。

でも、子供が嫌だと言っていたことをちょっと書いておこう自分メモ用に。

朝ごはんは毎回パンなんだけど、オーブンで温めてくれないから冷たい。

朝6時起床 冷たいパン朝食 昼食11時 午睡 16時入浴 
18時夕飯 20時睡眠
生活リズムが、2歳児向けなので、眠れない。昼寝なんかできるわけない。

「おとうさん」と呼んでいる人はどう見ても「おじいちゃん」

トイレが水洗じゃない、子供の部屋に見たことのない虫が突如現れる。

男子がうるさい。

こんな感じ。

なんか取り留めのないブログになってしまいました。

明日から普通のブログにします。





子どもをここの楽園村に、通わせて1年になりました。

子ども自身がすごく、ここの農村合宿を楽しんでいるので、続いています。

ここでは約1週間子供預かって、農作業をしたり、遊んだりしながら、食事、入浴、

衣服の洗濯や管理などもみんなでやっていく合宿です。

携帯、ゲーム機持ち込み禁止、TVもない生活が1週間です。

スタッフは中年の男女数名と学生スタッフ、子供たちと一緒に生活し、

一緒に食事し入浴し 同じ部屋で寝ています。

合宿中は中年のスタッフを「おとうさん」「おかあさん」と呼び学生スタッフを

「おにいさん」 「おねえさん」と呼び、巨大な家族のように過ごします。

子どもを預けている父兄は合宿期間の最後の1日に任意でであつまり、

育児について意見交換会というか、ブレーンストーミングします。

合宿期間中は道等で父兄が子供の会うことがないように細心の注意を払っていて

父兄が集まっている時に「そっちの道は今は行かないで、 子供たちは歩いてきます。」

と遠回りさせられたことがあります。

そんな風に合宿期間の大きな家族と過ごす時間をとても大事にしているようです。

ここにきていると、いろんなことが頭を巡ります。

主なものは家族の関係と、税金や雇用のことです。

この村の人たちは基本、自分の資産を持っていません。

だから、食事はもちろん 家や車さえも共有物で、私が行っていた村では一軒家はなく、

旅館、マンションのような 場所の部屋に家族単位で住んでいました。

各家には鍵はなく、出入り自由でした。

村の中を好きに引っ越してもいいらしく、自分の家と確固としたものはやはりないようでした。

村の子供たちはスタッフと寄宿舎で暮らし、そこから地域の学校に 通っているようです。

楽園村がずっと続くようなものですね。

村人は農作業をし生産物を市場に卸してお金を得てそれを村で使っているようです。

スタッフにちょっと聞いてみたんですが、村の中で結婚して、子供が産まれて

離婚したら 離婚夫婦のまま、同じ村に残り、子供の父と母として成長を見守る

元夫婦もいるようです。

養育費もないようです、そもそも個人資産が存在しないので。

ここでは、母子家庭が存在しないんです。

独身時代も結婚しても、離婚しても 同じように農作業し村単位ではあるけどお金を得ている。

母子だから家を借りれないとか、小さい子を抱えていると仕事に就けないとか

非正規雇用だから賃金が少ないとか、養育費も滞っているから子供に合わせたくない とか

そういう問題が起きないんです。

贅沢な生活はできないけど、衣食住の心配がない。

児童手当とか、いろいろ増税とか、貧困家庭には生活保護とか

あるところからお金を取って再配分、バラマキとか

DV被害にあっている方は母子寮やシェルターに避難できるけど、期限があるとか

企業に課せられる子育て世代も安心して働ける雇用スタイルとか

そのしわ寄せを受ける子供のいない女子社員とかそういうものがない。

私が知らないだけで問題はいっぱいあるのかもしれないけど、

少なくとも遠くから見ている分にはこの村はうまく循環しているな~と思います。

「どうしてうまくいってるの?」っていくと信仰ベースの話をされそうだけど、

そういうものをまずは横に置いておいてシステムとして循環させるにはどうしたらいいのかな?

なんて、一主婦が考えてしまいます。

私は仕事なのかな?と思います。

結婚、出産、離婚とライフステージが変わっても 仕事があって、

家族があってもなくても自分1人でもお金を稼げる環境かななんて思います。


この村は幼稚園生も村の中にある寄宿舎から通学してるので、

過日のベビーシッター事件も起きない環境なんです。

女が安心して子供を産めるんでしょうね。

村には3児の母、4児の母よく見かけます。

このうまく循環するスタイルを大きなレベルでできるかっていったらできないし、

子供だけどこかで預けるなんて、なにされるか分からないという 怖さもあるし

絶対できないんだけど、 そんな風に考えてぐるぐる回って、

なんの思いも出てこなくなるんですが、

ただ、子育て支援で「一時的にお金をあげます。」

一時的でもなんでもお金は必要だから「ください!」ですけど、

このスタイルではどうにもならないとは思います。

そんなことをぼやーんと考えていると家族も問題も浮かんできます。

それはまた今後
次の日、やっと来ました「貴船神社」京都のパワースポットとして

スピリチュアルな人たちの間では有名な神社、なんでも奥ノ院にいくと

頭のてっぺんがジンジンしたりー、眉間がうずいたりするらしい。

それは面白い!と大いに期待していきました。

まずはお水取りの場所。

みんなお水取ってました。小さい500ミリの

ペットボトルで取る人もいるけど、でっかい灯油缶みたいなものに

何百リットルとたっぷり取る人もいる。

だから手を清めたいだけなんだけど、並ばなくてはいけない状態。

この、私利私欲的な俗っぽさに「お水とらなくても、まいっか。」

と奥ノ院も目指します。勾配のきつい坂をひたすら上っていきます。

途中、中院もあり参拝、そこでほっと一休み、まじで山です。

中院の木山の高いところにあるからでしょうが、自由に枝が伸びて

細部に広がって行く様は神々しくもあり、神経も広がりを観ているようで

自分の内側に還っていくような感じです。

こういう樹がたくさんあって、それを観れたことがよかったです。

奥ノ院に向かうにつれ、人が減っていて奥ノ院ではゆっくりできました。

残念なことにパワースポットのパワーを感じることはできませんでしたが、

山登りで火照った体に奥ノ院の手水の水はおいしく感じ、楽しい参拝でした。

(ええ、清めの水をぐびぐび飲みました。)