ここから続き~。
家族問題から楽園村を見ていくと、また不思議なものが見えてきます。
ここに来る子供の多くが、行きたくないのに嫌々来ています。
出発するときに子供は拒否反応を示すそうです、小学生でも泣くんです。
うちの子どもは、喜んでノリノリ「牛っ、う~し。」と言いながらでいくので、
その感覚がよく分からなかったそうです。
だから、「あなたはなんで泣いているの?」と聞いたそうです。
そしたら「私をこんな辺鄙なところに連れて来るなんてお母さんは私が嫌いだからだ。
と思ったら悲しくなった。」と答えてくれたそうです。普段は寄宿舎から学校に通っている
その子はせっかくの春休みも辺鄙なところに合宿に連れてこられて、親との過ごす時間を
失っていくのが悲しいんでしょう。
その子は来たら来たで楽しんでいるんですけど。寂しさは拭えないのかもしれません。
でも、その一方で閉じた家庭の中で親の過干渉や、抑圧、で身動きが取れなくなって
悲しんでいる子供はいるんです。
村の外にはいます。身体を壊してしまって過食障害になった有名人も
いますね。
子供は寄宿舎から通い親との時間も少なく、地域で子育てをしているため家族の関係が
開放的すぎるヤマギシと、完全に閉じた親が子にべったりで過剰に関わり
暮らしている家族。どちらにも「私は嫌われている。」という感情をもっている子供がいると
いうのは何だか不思議な感じがします。
と同時にどちらにも満ち足りている子供も一定数いるということなんでしょうけど。
悲しいと言う気持ちから見ると、どちらも親の思想を子供に押し付けられている
という意味では同じなのかもしれません。
親に有無も言わさず信仰を押し付けられる子供の気持ちは、私もわかります。
信仰に対する愛情なのか自分に向けられている愛情なのか、子供は敏感に
理解しますから。
そうなると親と過ごす時間の量はあまり関係ないのかな?と思ったりもします。
働いていない親と、働いている親、子供を構える時間とお金に余裕がある親と
そうじゃない親、どちらにも自分は愛されていると感じる子供と
嫌われているという感覚になる子供がいるという事なのでしょうか?
生まれ順の観点も足していくとそうなのかな?と思えてきます。
真ん中っ子の視点です。自分は差別されていると感じるのでしょうか?
過干渉とされる子供と、干渉不足とされる子供みんなが同じところで立ち止まっている
感じがしてなんだか不思議になります。自分は愛されていないのかも。
こういう干渉される量に納得に行かない子供たちが子供の時にに双方の話を聞いたり
他方の生活を経験したりするとなにか気持ちの変化があるのかな?
少なくとも全然別の生き方をしている子供がいるんだ。そして同じ気持ちで立ち止まっている
と知ることだけでも楽になるのかな?
過ごす時間ではない何かが見つかるのかな?見つからないのかな?
そもそもあるのか?ないのか?
こっちの話はますます自分の中でこんがらがって、今回もやっぱりうまく言葉にできません。
まあ、少なくともうちの子供が気に入っているうちは楽園村に通わせてみてもいいかなと
思います、そこで私も1人で考えてみようかな?
幸い、楽園村内では子供に信仰を押し付けていないようだから。
ここの人が使っている教団の言葉「研鑽」は子供にはミーティングと言っていたり
内容も遊びのレクリエーションの確認だけのようだし。
ヘンな歌を歌わされるけど歌詞は「晴れたら種を植えよう。」みたいな農民の歌だし。
最初はうわー宗教だ~~とビビりまくりでしたが、
あんまり宗教団体の感じがしないから、1年遠くから見ていられました。
逆に1年見てもどの宗派から発生した新宗教なのかよく分からない状態だし。
仏像も十字架も形式だった祈りもないし、ヒントを探すことができない。
まあ子供を預ける分にはそれがいいのかなと思っています。
でも、子供が嫌だと言っていたことをちょっと書いておこう自分メモ用に。
朝ごはんは毎回パンなんだけど、オーブンで温めてくれないから冷たい。
朝6時起床 冷たいパン朝食 昼食11時 午睡 16時入浴
18時夕飯 20時睡眠
生活リズムが、2歳児向けなので、眠れない。昼寝なんかできるわけない。
「おとうさん」と呼んでいる人はどう見ても「おじいちゃん」
トイレが水洗じゃない、子供の部屋に見たことのない虫が突如現れる。
男子がうるさい。
こんな感じ。
なんか取り留めのないブログになってしまいました。
明日から普通のブログにします。
家族問題から楽園村を見ていくと、また不思議なものが見えてきます。
ここに来る子供の多くが、行きたくないのに嫌々来ています。
出発するときに子供は拒否反応を示すそうです、小学生でも泣くんです。
うちの子どもは、喜んでノリノリ「牛っ、う~し。」と言いながらでいくので、
その感覚がよく分からなかったそうです。
だから、「あなたはなんで泣いているの?」と聞いたそうです。
そしたら「私をこんな辺鄙なところに連れて来るなんてお母さんは私が嫌いだからだ。
と思ったら悲しくなった。」と答えてくれたそうです。普段は寄宿舎から学校に通っている
その子はせっかくの春休みも辺鄙なところに合宿に連れてこられて、親との過ごす時間を
失っていくのが悲しいんでしょう。
その子は来たら来たで楽しんでいるんですけど。寂しさは拭えないのかもしれません。
でも、その一方で閉じた家庭の中で親の過干渉や、抑圧、で身動きが取れなくなって
悲しんでいる子供はいるんです。
村の外にはいます。身体を壊してしまって過食障害になった有名人も
いますね。
子供は寄宿舎から通い親との時間も少なく、地域で子育てをしているため家族の関係が
開放的すぎるヤマギシと、完全に閉じた親が子にべったりで過剰に関わり
暮らしている家族。どちらにも「私は嫌われている。」という感情をもっている子供がいると
いうのは何だか不思議な感じがします。
と同時にどちらにも満ち足りている子供も一定数いるということなんでしょうけど。
悲しいと言う気持ちから見ると、どちらも親の思想を子供に押し付けられている
という意味では同じなのかもしれません。
親に有無も言わさず信仰を押し付けられる子供の気持ちは、私もわかります。
信仰に対する愛情なのか自分に向けられている愛情なのか、子供は敏感に
理解しますから。
そうなると親と過ごす時間の量はあまり関係ないのかな?と思ったりもします。
働いていない親と、働いている親、子供を構える時間とお金に余裕がある親と
そうじゃない親、どちらにも自分は愛されていると感じる子供と
嫌われているという感覚になる子供がいるという事なのでしょうか?
生まれ順の観点も足していくとそうなのかな?と思えてきます。
真ん中っ子の視点です。自分は差別されていると感じるのでしょうか?
過干渉とされる子供と、干渉不足とされる子供みんなが同じところで立ち止まっている
感じがしてなんだか不思議になります。自分は愛されていないのかも。
こういう干渉される量に納得に行かない子供たちが子供の時にに双方の話を聞いたり
他方の生活を経験したりするとなにか気持ちの変化があるのかな?
少なくとも全然別の生き方をしている子供がいるんだ。そして同じ気持ちで立ち止まっている
と知ることだけでも楽になるのかな?
過ごす時間ではない何かが見つかるのかな?見つからないのかな?
そもそもあるのか?ないのか?
こっちの話はますます自分の中でこんがらがって、今回もやっぱりうまく言葉にできません。
まあ、少なくともうちの子供が気に入っているうちは楽園村に通わせてみてもいいかなと
思います、そこで私も1人で考えてみようかな?
幸い、楽園村内では子供に信仰を押し付けていないようだから。
ここの人が使っている教団の言葉「研鑽」は子供にはミーティングと言っていたり
内容も遊びのレクリエーションの確認だけのようだし。
ヘンな歌を歌わされるけど歌詞は「晴れたら種を植えよう。」みたいな農民の歌だし。
最初はうわー宗教だ~~とビビりまくりでしたが、
あんまり宗教団体の感じがしないから、1年遠くから見ていられました。
逆に1年見てもどの宗派から発生した新宗教なのかよく分からない状態だし。
仏像も十字架も形式だった祈りもないし、ヒントを探すことができない。
まあ子供を預ける分にはそれがいいのかなと思っています。
でも、子供が嫌だと言っていたことをちょっと書いておこう自分メモ用に。
朝ごはんは毎回パンなんだけど、オーブンで温めてくれないから冷たい。
朝6時起床 冷たいパン朝食 昼食11時 午睡 16時入浴
18時夕飯 20時睡眠
生活リズムが、2歳児向けなので、眠れない。昼寝なんかできるわけない。
「おとうさん」と呼んでいる人はどう見ても「おじいちゃん」
トイレが水洗じゃない、子供の部屋に見たことのない虫が突如現れる。
男子がうるさい。
こんな感じ。
なんか取り留めのないブログになってしまいました。
明日から普通のブログにします。
