第1話 複数の3強対決
スペシャルウィークを語る上で、ライバルたちとの死闘を避けて通ることはできない。ライバルたちとは、4歳(現表記では3歳)クラシックを争ったセイウンスカイ、キングヘイローの2頭にほかならない。スペシャルウィークを含めたこの3頭は、「3強」といわれた。彼らによる三冠の戦いは、ダービーがスペシャルウィーク、残りの二冠はセイウンスカイが手にしている。クラシック緒戦の皐月賞では、1着セイウンスカイ、2着キングヘイロー、3着スペシャルウィークと、3強によるワンツースリーであった。
しかし、本当の意味での「3強」は、4歳クラシック(現表記では3歳)を戦った相手とは別というべきであろう。エルコンドルパサー、グラスワンダーという2頭の外国産馬とスペシャルウィークこそが、この世代における真の「3強」なのだ。ただ、古馬になってからのエルコンドルパサーは海外でしか走っていないため、スペシャルウィークとの直接対決は4歳(現表記では3歳)時のジャパンカップ以外実現していない。また、この3頭がそろった戦いはついに実現しなかった。
それでも、レースによってさまざまなバリエーションの3強対決が形成された。スペシャルウィーク・エルコンドルパサー・エアグルーヴ(この馬は2歳上)、スペシャルウィーク・セイウンスカイ・メジロブライト(この馬は1歳上)、あるいはスペシャルウィーク・グラスワンダー・メジロブライトといった構図である。厳密に言えば、3強ではなく、2強ととらえるべきレースもなくはないが。
スペシャルウィークの全成績は17戦10勝というものであった。いわゆる頂上クラスの馬の引退が早まり、使われる回数自体も減少した昨今の傾向から見れば、かなり多く走った部類というべきであろう。ライバルたちと戦いつづけたスペシャルウィークの存在なくして、複数の「3強対決」は実現不可能だったといっても過言ではあるまい。
第2話 生い立ち
1995年5月2日、スペシャルウィークは北海道門別の日高大洋牧場で生まれた。父サンデーサイレンス、母キャンペンガール、母の父マルゼンスキーという血統である。
母系は名牝(めいひん)系のひとつシラオキ(自身は牝馬ながらダービー2着)の系統である。さかのぼると、小岩井農場が輸入したフロリースカップ(1904年生まれ)という繁殖牝馬(ひんば)にたどり着く。これを基点とし、シラオキ分岐からコダマ、シンツバメ、サンエイソロン、シヨノロマン、シスタートウショウ、マチカネフクキタル、スペシャルウィークなど、サンキスト分岐からガーネット、アサクサスケール、メジロマイヤー、ロングレザー、マイネルブライアンなど、健宝分岐からナリタハヤブサ、ビッグウルフなど、グリンライト分岐からキタノカチドキ、ニホンピロウイナー、サンドピアリスなど、スターリングモア分岐からヤシマドオター、カツラノハイセイコ、トサモアー、スズカコバンといったように、数え上げればきりがないほどの活躍馬が出ている。フロリースカップは日本の生産界に多大な貢献をした偉大な基礎牝馬の一頭というべきであろう。そんなフロリースカップ系の中でも、シラオキの血脈は至宝ともいえるものであった。
日高大洋牧場に初重賞をもたらしたのは、シラオキ系ということで購入したタイヨウシラオキの産駒(さんく)コーリンオー(スワンステークス勝ち馬)であった。これによって、日高大洋牧場はシラオキの血へ傾倒してゆく。シラオキを繋養していた鎌田牧場にその血を譲ってほしいと申し入れたのだ。協議の末、シラオキの直仔(ちょくし)ミスアシヤガワにセントクレスピンを付け、牡馬(ぼば)が生まれたらそのまま鎌田牧場に、牝馬が生まれたら日高大洋牧場が買い取るという話が成立したのである。生まれてきたのは牝馬であった。
その牝馬はレディーシラオキと名づけられ、58戦4勝の成績を残した。競走馬としてはたいしたことはなかったが、なんといってもシラオキの血脈である。繁殖として大切に扱われ、1986年に名種牡馬(しゅぼば)マルゼンスキーと交配された。こうして生まれてきたのがキャンペンガールである。この馬は当歳時から期待されており、栗東(りっとう)の名門・小林稔厩舎(きゅうしゃ)の門をくぐった。しかし、気性の荒さが災いし、厩舎の洗い場で暴れて脚を負傷してしまい、一度も走ることなく抹消の憂き目にあっている。それでも、シラオキの血に賭ける日高大陽牧場は、繁殖としてのキャンペンガールに夢を求めつづけた。
とはいえ、当初の産駒成績はあまり芳しいものではなかった。自身がそうであったように産駒にも気性難の馬が多く、競走馬にすらなれない馬が相次いだのである。初仔(はつこ)のパドスルール牡馬は去勢までしたが未出走、2番仔のオグリキャップ牡馬は放牧中に暴れて骨折して競走馬になれずじまい、4番仔のサクラユタカオー牝馬・リネンタイヨーも気性が悪過ぎてデビューできなかった。3番仔のヘクタープロテクター牝馬オースミキャンディこそ2勝を挙げたが、これまた気の悪い馬で、何度もゲート試験に落ちたほどである。
それでも、繁殖5年目のキャンペンガールにはサンデーサイレンス(以下、SS)がつけられた。父母ともに気性が荒いことが懸念されたが、初年度産駒からバンバン強豪を出しているSSの魅力の前では些細(ささい)なことだったのである。
キャンペンガールは無事サンデーサイレンスの種を受胎したが、今度は仔が生まれる前に大きな問題が持ち上がった。出産予定日の7、8か月前からせん痛に苦しみ始め、その4か月後には腸炎を患って腸の一部が壊死(えし)するという事態に陥ったのである。こうなると、出産どころか母体そのものの危機といわねばならない。
キャンペンガールは頑張った。困難を乗り越え、なんとか鹿毛(かげ)の牡馬を産み落としたのである。たが、病を抱える体に出産は命がけの難事業だったようだ。5番目の仔を産み落とすと、すぐに息を引き取ってしまったのである。まるで、最後の義務を果たして逝ったかのようだった。
生まれた当初のサンデーサイレンスとキャンペンガールの牡馬は、脚長でひょろりとした馬だった。そのせいかフットワークも大きく、速く走ってもそれほどスピードが乗っているようには見えなかったという。入厩直前、育成先のノーザンファーム空港牧場で15-15(じゅうご・じゅうご)をやっていたとき、楽にその時計を出したものだが、見た目には16、7秒で走っているような印象を与えたらしい。後年、SS産駒の超一流馬にしてはスピードがないといわれることになるが、そんな特徴も影響したのかもしれない。
第3話 臼田所有までの経緯
日高大洋牧場初の重賞勝ち馬コーリンオーは、栗東(りっとう)の白井寿昭調教師の管理馬であった。それが縁で、以降牧場と白井は長い交友関係を保つことになる。
サラブレッドの血統において、白井は「母の父マルゼンスキー」という事項を重視した。
マルゼンスキーは内国産の名種牡馬で、母の父としても優秀である。日高大洋牧場と付き合いの深い白井が、マルゼンスキーの肌であるキャンペンガール産駒をチェックしていたのは当然であろう。キャンペンガールの産駒のうち、これまで唯一競走馬になれたオースミキャンディも、白井が手がけた馬であった。
ちなみに、マルゼンスキーの名繁殖牝馬に、ウイニングチケット、ロイヤルタッチを生んだパワフルレディがいる。実は、白井はこの馬にも目をつけていた。ウイニングチケットの兄マルブツパワフル(父プルラリズム)は白井の管理馬だったのである。ウイニングチケットは、当初それほど評判が高くなかったトニービンの初年度産駒で、そのトニービンの仔にありがちな「生まれたばかりのころは貧弱に見える」という特徴を持っていた。それに懸念を抱いた白井は、ウイニングチケットを敬遠したのである。まあ、人間誰しも成功ばかりが続くわけではない。
いずれにしても、かねての関係、姉のオースミキャンディを手がけた経緯から、サンデーサイレンスとキャンペンガールの仔は白井が預かることになった。その話を決める際、白井は姉同様に山路秀則(ナリタ、オースミの冠で知られる馬主)に購入してもらうつもりでいた。ところが、牧場側は臼田浩義の名を挙げてきたのである。白井にしみれば、アメリカで知り合った臼田と打ち解け、彼の馬を預かったこともあるし、どうしてもというのであれば異存はなかった。ただ、競馬社会における慣例としては、最初は山路に声をかけるのが筋である。だが、日高大洋牧場のマネージャー小野田宏は
「実は、山路さんが“私はサンデーサイレンスと相性が悪い”とこぼしていたことがあるんですよ。サンデーの本家とも言える社台さんからも何頭か買われていたようですが、あまりいい結果は出なかったそうです。山路さんといえば、なんといってもナリタブライアン。ご本人は“サンデーよりブライアンズタイムのほうが相性がいい”とお考えのようでした。臼田さんを推した背景にそんな理由があったのです」
と考えていた。
こんな経緯でスペシャルウィークは臼田の所有馬になったわけだ。
以前、臼田浩義には「金はかけるが結果の出ない馬主」という有難くないレッテルが貼られていた時期がある。だが、スペシャルウィークの活躍によってそんな汚名も一掃され、有数の大馬主の一人として知られるようになっていった。一方、同馬が活躍したことによって、後日白井は買いそびれた山路秀則から叱責(しっせき)を受ける羽目になる。運とは不思議なものといわざるをえない。
第4話 納得できない敗北
スペシャルウィークが入厩したのは、1997年9月のことであった。
入厩までノーザンファームの空港牧場で育成されていたのだが、このとき担当していたのは白井寿昭の息子の秀幸であった。そのときの走りっぷりから、息子は父に太鼓判を押していた。
若駒にはデビュー前にゲート試験を受ける義務が課せられる。だが、本試験の前に模擬テストがあることはあまり知られていない。その際、スペシャルウィークはゲートから持ったままで好時計をマークした。試験で騎乗した武豊も
「乗り味も素晴らしいですし、いい雰囲気も持っています。このままずっとボクを乗せつづけてください」
と白井に申し出たほどである。
そんなふうに、スペシャルウィークの評判は日に日に増していった。11月29日のデビュー戦でも単勝1.4倍の圧倒的1番人気に推され、後に重賞レースで活躍することになるレガシーハンター以下を完封している。
デビューから皐月賞へ向かうまでのスペシャルウィークは順風満帆そのものであった。2戦目の白梅賞で地方馬のアサヒクリークに差し切られる大番狂わせがあったが、これはまったくの参考外らしい。というのは、除外覚悟で登録だけしていたとのことで、陣営からすれば使うつもりのないレースだったからである。たまたま抽選に通ったため、出走させただけのことなのだ。まあ、白井にしてみれば「6、7分のデキでも勝てる」程度の気持ちだったのだろう。
白梅賞の敗戦が実力負けでないことは、早くもデビュー3戦目のきさらぎ賞で証明された。1勝馬の身ながら1.7倍の支持を受け、デイリー杯3歳ステークス(現、デイリー杯2歳ステークス)の勝ち馬ボールドエンペラーを3馬身半ちぎって圧勝したのである。続く弥生賞でも、ジュニアカップをブッチ切ったセイウンスカイ以下に完勝。これにより、押しも推されぬクラシックの大本命と目されるようになったのである。
こうして迎えた皐月賞で、スペシャルウィークは1.8倍の1番人気に推されていた。2番人気は5.4倍のセイウンスカイ、3番人気は東京スポーツ杯3歳ステークスの覇者キングヘイローで6.8倍である。この上位3頭が、クラシックを争う3強と目されていた。
皐月賞を制したのは2番人気のセイウンスカイであった。弥生賞では逃げてスペシャルウィークにつかまったが、本番では2番手追走から4角先頭のレース運びで後続を振り切ったのである。2着はキングヘイロー、スペシャルウィークは3着に終わった。
セイウンスカイ鞍上(あんじょう)・横山典弘の好騎乗が光ったレースではあったが、負けた武豊・スペシャルウィークからすれば納得できない敗戦だったというべきであろう。というのは、インに敷かれたグリーンベルトの存在により、内外に極端な有利不利が生じていたからである。ピッタリと内を通ったセイウンスカイがグリーンベルトの恩恵を最大限に受けたのに対し、荒れた外を通ったスペシャルウィークは明らかに不利であった。レース後、武が不満を漏らしたのは言うまでもない。
第5話 証明
3強とはいいつつも、弥生賞が終わった時点ではスペシャルウィークが頭ひとつ抜けた存在であった。しかし、皐月賞の結果によって、文字通りの3強になったのである。とはいえ、白井や武からすれば、「スペシャルウィークが一番強い」という気持ちに変わりはなかった。特に武の思いは強烈で、内心は「三冠を取れる器」とさえ見ていたのである。皐月賞の結果は、グリーンベルトがもたらした番狂わせに過ぎない。ダービーでは是が非でもそれを証明しなければならなかった。
1998年6月7日、東京競馬場。日本ダービー。
好スタートを切ったのは皐月賞馬セイウンスカイだった。そこにタヤスアゲイン、エスパシオが続く。スペシャルウィークはやや出遅れ、中団からの競馬になった。
異変が起きたのは、絶好のスタートを切ったキングヘイローが引っ掛かった時だった。抑えが利かないまま暴走して先頭に立ってしまったのである。ダービーで人気馬に初めて乗った福永祐一は、緊張のあまり馬を御すことができなかったらしい。スタンドの観衆は大きくどよめいた。
その間、スペシャルウィークは絶好のポジションまで押し上げていた。2コーナーあたりまでピッタリとインにつけた武は、向こう正面で徐々に外に持ち出す。3コーナーを通過し、4コーナーを回るときも手応えは十分だった。
一方、暴走したキングヘイローに余力はなく、直線で馬群に飲み込まれてゆくだけだった。スペシャルウィークは粘るセイウンスカイを尻目に一気に伸びてゆく。あとは後続を突き放すのみ。堂々と先頭でゴールしたとき、後方から追い込んできたボールドエンペラー以下に5馬身もの差をつけていた。
文句のつけようのない完ぺきな勝利であった。やや重で2分25秒8の勝ち時計も極めて優秀である。「スペシャルウィークが一番強い」という、白井寿昭、武豊の思いが証明されたといえるだろう。なお、このダービーは白井にとっても武にとっても初めての栄冠だった。