私が第二の人生を始めたのが平成1年でした。 | 【水戸っぽBlog】

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水戸っぽとは、水戸の三ぽい、【理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい】または、【理屈っぽい、怒りっぽい、飽きっぽい】から来ています。その他、水戸生まれの水戸育ちの人間を【水戸っぽ】ともいいます。水戸っぽ深川隆成の日々の気持ちを綴っています。

もうそろそろで2018年から2019年に変わります。
平成最後の大晦日と正月。
平成が始まる前後に私は死にかけ、そして命を取り留めた事で第二の人生を始めました。
1989年1月4日未明に私が交通事故で三日間意識不明になりました。その後、昭和天皇が崩御された1989年1月7日に意識が戻りました。
あれから紆余曲折ありました。
30年経ったというのも感慨深いです。
時速50キロの車にぶつけられ車の下敷きで全身打撲で頭が削れたり割れたり、首の骨が圧迫骨折したり、腕の骨が折れたりラジエーターの下で右胸と右足の太ももと右手のひらが大火傷になったりしました。現場検証の警察も救急隊員も即死と思った事故。
それでも、人の為に何かをする迄は死ねないと夢を見て、夢から醒めたら、体全身物凄い痛み。
一度死にかけた命。人の役に立つ迄死んではいけないと生かされていると思い、自分の活かし方をどうすればいいのか激痛に四六時中耐えながら必死に考えました。
この痛みに耐えられるなら、当時日本で知られる様になって来たウルトラマラソンもいけるのではないか?
そうして、自分が頑張る事で好成績を挙げたら他の人が頑張る事の道標になるのでは?
と、最初はウルトラマラソンを始めました。
1991年に24時間走で初優勝したり、1992年に日本最初の250キロ走で1位になったりしましたが、世界的なレベルにはついて行けず途中で挫折してしまいました。

そんな私が、これこそ人の為になる!と思ったのが歌です。
音楽に国境はありません。違う言葉で歌っていても感性が合えば心地良くなれます。
2006年に父がスキルス性胃ガンで他界した後に、様々な経緯があってJAZZの和訳を始めました。
黒人音楽のJAZZを和訳した歌でライブやCD販売をして、その収益を人類誕生の地アフリカの恵まれない子供たちに寄付できないかと思って、訳し始めて来年で14年目になります。
私の母校拓殖大学の校歌にある「人種の色と地の境我が立つ前に差別なし」の校歌の自分なりの実践だと思いました。
その後、2012年に私が後にJAZZを習い演奏のバックアップも頂く星野由美子さんが東南アジアの奥地に学校を建設するチャリティーコンサートで歌われたのを観て、正にこれだ!と思い、セッションに参加する様になり日本語訳を披露しているうちに2016年4月6日の誕生日にライブデビューする事が出来ました。
その一年後、母校拓殖大学卒業生の先輩が理事長のNPO茨城教育ネットワークがベナン共和国学校建設支援基金を創設する事になりました。

来年で3年目となります。
そして、ベナン共和国がアフリカからアメリカに奴隷を送り出した港のあった国というのも後から知りました。
一つの事を愚直に真っ直ぐやっていると不思議に色々と運命が絡み合ってくるものと常々思います。
その間、チャリティーコンサートを、アメリカNYのカーネギーホールで行う事で進めておりましたが資金面で立ち行かなくなり今年の9月に予定していた公演の前払金の支払い期日までに納められず2月に一旦キャンセルとなりました。
そんな事もあり、今年はライブ活動は絞り込んで余裕を持って行こうと昨年まで目一杯入れていたスケジュールを見直す事にしました。
それでも、
「桜の季節」というオリジナルのミニアルバムを出して収益を全額NPO茨城教育ネットワークのベナン共和国学校建設支援基金に振り込まれる契約でCD発売に漕ぎ着けました。


今年8月のベナン共和国独立記念式典でミニコンサートもさせて頂き、その後業界紙や情報紙での紹介記事や、ラジオ出演、異業種交流会やお寺などでの各種イベントにも呼んで頂きました。







音楽は、奥が深く、私はまだまだ未熟者です。

それでも、人が心地良くなって頂き、それがひいては巡り巡って誰かの為になるという歌の大きな力に可能性を賭けていけたらと思っています。

私に関わって頂きました全ての皆様に感謝致します。
ありがとうございます。

目指す道はまだまだずっと先ですが、これからも愚直に一歩一歩進んで参ります。