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● 髙山右近が、1615年2月3日に、召天 ・ 帰天 された後、
妻のジュスタさんや 娘のルチアさん、長男 ジョアン十次郎の子ども達は、どうなったのでしょうか。
右近さんが召された年の 次の年 ・ 1616年の、ロドリーゲス司祭の
書簡。この ロドリーゲス司祭は、この年、イエズス会の 日本準管区の長をされていた方ですが、この方の、ローマへの手紙の中で、
「 我らの主は、彼 ( 髙山右近 ) を、マニラで みもとに召し給うた。
彼の妻 ( ジュスタ ) ・ 娘 ( ルチア ) ・ および 孫たちの一人は、
日本に戻ってきて、秘密にしてはいるが、キリスト教徒である、彼の
婿 ( ※ ルチアの夫だった 横山康玄のことだと思いますが ) が、
彼らに会った。」
━━ と ありまして、
徳川幕府によって、厳しい 「 キリスト教 大禁教令 」 が出されていた
さなかのことですが、こっそりと、妻のジュスタ ・ 娘のルチア ・ 孫の一人は、日本に帰って来たようです。
そして、金沢まで行って、横山康玄 ( やすはる ) に ひそかに、会っているようです。
しかし、その後の、彼らの動向については、徳川 大禁教 のもとでのことでもあり、残念ながら、書き残された史料は、いっさい、見つかっては いません。
● 髙山右近の 「 帰天日 ・ 召天日 」 についてですが、
髙山右近が マニラで 天に召されていった日は、1615年の2月3日
です。
最近は、2月3日で定着していますし、[ 列福式 ] においても、
髙山右近の帰天日は、2月3日。
そして、毎年2月3日を、福者 ・ 髙山右近の記念日として祝う
━━ ということが、フランシスコ教皇の書簡で、はっきりと語られました。
これまで、2月5日 と言われたり、6日 と言われたりして、混乱があり
ましたが、
一番の原因は、ラウレス神父が、今回ではなく ・ 前回の 髙山右近の列福請願に向けて、髙山右近の生涯を 学問的に研究することを
委嘱され、「 髙山右近の生涯 」 を書き記されました。
1945年 ( 昭和20年 ) のことです。
ラウレス神父は、その本の中で、右近の帰天日を、2月5日とされて
いまして、
それをもとにして、いろんな人たちが 本を書いたり、語ったりしていきましたので、2月5日が 帰天日だ ━━ などと言われたりしました。
しかし、これは、はっきりと 間違いで、
今回、ラウレス神父の 「 髙山右近の生涯 」 が、現代語訳されて、
溝部脩 司祭の監修で、再版されましたが、これには、2月3日 として
訂正されています。
● どうして、このようなことになってしまったのでしょうか。
髙山右近が召された時には、すぐそばに モレホン神父が おられた
わけですから、一番、その日のことは、よく知っておられるはずです。
その モレホン神父が、「 日本殉教録 」 という本を書かれて、
「 髙山右近 」 のことも、しっかり 書かれているのですが、
その中で、髙山右近の召された日を 「 2月5日 」 と書かれているのです。
そういうことでしたら、
髙山右近の臨終に立ち会った 目撃者の記録なのですから、まちがいが なさそうです。
先ほどの ラウレス神父も、この モレホン神父が書かれた 「 日本殉教録 」 を もとにされているのです。
ところが、実は、モレホン神父自身が、まちがいに気づかれて、訂正
されているのです。
自分の 手書き原稿の 「 3 」 を 「 5 」 と 読み間違えてしまったためで、
「 5 」 5日 ではなくて、2月の 「 tres 」 だった。2月の 3番目の日だった ━━ と 訂正されています。
この写真を 見ていただきましょう。
これは、京都の 妙心寺の 「 春光院 」 が保管してくださっている、
重要文化財の、イエズス会の しるし I HS と刻まれた鐘ですが、
年代が、1577年のものとなっていて、
1年前の 1576年に献堂された、都の南蛮寺で使用されていたものだと思われます。
年代の 1577年の、5 の文字を よく ご覧になってください。
私たちは、5 の数字を書く時は、普通、2筆 ・ 2画 で書きます。
しかし、西洋式の書き方というのでしょうか。
5 を 2筆だはなくて、1筆で書いています。 S
これが、普通の書き方だったようです。
3 も 一筆。5 も 一筆。 急いで書いていますと、
後から見てみた時に、3 だったのか、5 だったのか、間違ってしまい
そうです。
モレホン神父は、原稿では 3 と書いたはずなのですが、
本にする段階で、3 を 5 と、
自分で そう思われたのか、
印刷する 関係者が そう思ったのか、わかりませんが、
5 と間違われてしまいました。
後日、モレホン神父は、間違っていることに気づかれて、
今度は、数字の 「 3 」 を使わないで、2月の 3番目の日 ・ [ tres ]
の日だった、と訂正されているのです。
というわけで、髙山右近が召された日 ・ 帰天日は、2月3日 に間違いありません。
● ついでに言っておきますと、「 6日 」 というのもあるのですが、
これは、日本の暦 ・ 和暦では、6日になるのです。
しかし、その場合は、2月6日ではありません。
髙山右近が亡くなった日は、日本の暦 ・ 和暦では、
慶長20年 正月6日になります。
ここで、又、へんてこな間違いが起こっています。
高槻城跡公園に 「 髙山右近像 」 が建てられています。
マニラの 「 比日友好公園 」 に建てられている 右近像と同じもの
です。その説明板を見てみますと、
最近 リニューアル してくださったのですが、そこには、
髙山右近が亡くなった日は、「 慶長20年2月3日 」 と なっているのです。
もう、皆さんには、間違いが、おわかりですよネ。
慶長20年 ときたら、正月6日 と しなくてはなりません。
2月3日 としたければ、西暦 ・ グレゴリオ暦の
1615年2月3日 と しなければなりません。
慶長20年2月3日 では、和暦 ・ 洋暦 が ごっちゃごちゃ になって
いるというわけです。
● 改めて、親友 ・ 細川忠興に送った、髙山右近の言葉 を 思い起こしてみましょう。
「 私は、いま 南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりです。
( 私の、このような生き方について ) どう 思われますか?
如何? 」
遺言です。
「 お前たちは ・ あなた方は、りっぱなキリシタンになって、聖なる教会や パーデレ方の教えに 従順でありなさい。
もし、このことに背くならば、勘当し、
子や孫、あるいは 親族とは認めない。」
臨終の時には、
「 わが魂 ( アニマ ) は、天地万物の 御 ( ご ) 作者なる 御主
( おんあるじ ) を、ひたすら 慕い奉る。」
私たちも、このような 福者 ・ 髙山右近 の信仰や 生き方に倣う者と
して、後につづいていきたいと思いますが、
いかがでしょうか。
最後まで お読みいただき、ありがとうございました。
皆さん、一人一人の上に、
主なる神さまの祝福が、豊かに ありますように。
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阿武山福音自由教会の 教会員の方の庭に、まだ 残っている
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