髙山右近が、マニラで召天(帰天)されたのは、「2月3日」でいいのでしょうか?  | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. 髙山右近が、マニラで召天(帰天)されたのは、「2月3日」でいいのでしょうか? (「2月5日」と記されているものがありますが)

A. 以前、キリシタン文化研究会・会員の高橋勝幸さんの文章が、紹介されていたのですが、今は掲載されていません。高橋さんの了解をいただいて、紹介させていただきます。


                髙山右近の「帰天日」    高橋勝幸(啓光学園教諭)

 髙山右近の亡くなった年月日は、1615年「2月3日」であることは、はっきりしています。しかし、なぜか「2月5日」と信じている方々が多いのです。「2月6日」と言われる方もいます。

 「2月3日」が定説ですが、なぜこのような間違いが起こるのか疑問に思い、調べ直してみました。

 暦の読み間違いはよくあります。特に1582年「10月4日」の翌日は「10月15日」になります。というのも、この日を境にして「ユリウス暦」から、現行の「グレゴリウス暦」への移行が実施されたので、多くの書物の日付の間違いの元となっています。

 また、陰暦には「閏(うるう)月」があって、この換算でも多くの誤りが出ています。つまり、髙山右近の「2月6日」説は、陰暦の小月(29日間)と大月(30日間)の勘違いによって、陰暦1月8日から換算して出したものと思われます。

 それにしても、「2月5日」説の根拠は何だったのでしょうか。

 キリスト教関係者の間で、このような間違いが多いのは、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)の松田毅一氏記述の「髙山右近」の項で「2月5日」となっているため、この辺りから間違った日付が流布したからではないかと考えて、根源を探っていきました。

 吉川弘文館刊行『国史大辞典』の「髙山右近」の項で、五野井隆史氏は「2月3日」と正しく述べられていて、さらに出典も明らかにされていました。このほか、海老沢有道氏などの吉川弘文館刊行の文献はすべて「2月3日」でした。

 調べた結果、最初の間違いは、ペドゥロ・モレホン神父(1562年ー1639年/イエズス会)が、マニラからメキシコへの途次に書いた『日本殉教録』にあることが分かりました。
 モレホン師は、右近の臨終に立ち会った目撃者であるだけに、権威ある証言に見えますが、同じ殉教録の中で右近の洗礼の年も、1563年を1565年と誤って記載しており、自身の手書き原稿の数字の「3」を「5」と読み間違ったために起こったミスと言えます。(注)

 この間違いにモレホン師自身も気付いたようです。30年ほど前にローマで発見されたモレホン師の記述による「1630年の列福調査」(17世紀にもマニラで、髙山右近の公式列福調査があった)の公式証言記録では、はっきりと「2月3日」と訂正されており、しかも数字ではなく、文字で「tres」(スペイン語の「3」の意味)と記されています。従って「2月3日」で間違いなく、疑う余地はなくなっています。

 ところが、キリシタン研究の権威であったヨハネス・ラウレス神父(イエズス会)は、ニコラス・トリゴー神父(1577年ー1628年/イエズス会)の記録、およびモレホン師の殉教録を基にして、その著『髙山右近の生涯』で「2月5日」を確実なものと主張されました。ラウレス師の用いた資料は、トリゴー師の『日本殉教記』も含めて、すべてモレホン師のものが基となっていたので、複数の資料を参考にして、間違いに気付かなかったようです。

 松田氏の間違いは、このラウレス師の資料からの引用にあると思われます。松田氏はラウレス師の資料を多く用いられているため、『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』の中編「南蛮史料の研究」第1章においても、地理的な間違いがいくつかありましたが、これらの資料を引用したと思われる片岡弥吉氏の『日本キリシタン殉教史』も同じ間違いをしていました。

 このように、モレホン師の「3」と「5」の読み間違いから始まった「2月5日」説が、現在までも一人歩きし、混乱を来しています。
 キリシタン研究の大家で、髙山右近に詳しいフーベルト・チースリク神父(イエズス会)は、早くからこの間違いに気付かれて、論文を書かれています。海老沢氏、五野井氏はこれらのチースリク神父の論文に接して、正しい記述をされてきたものと思いますが、両氏のような謙虚で地道な研究活動に敬服するとともに、そうした姿勢は、多くの者が学ぶべき模範であると痛感させられました。

(注) 京都・妙心寺の「春光院」に残されている 【イエズス会の鐘】(重要文化財)の、 鐘銘の年代〈1577〉の「5」に注目してください!
   「5」は、“一筆書き”されることが多かったようですね。 これでは、「3」と間違えそうですよネ。

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