【 福者 ・ 髙山右近と行く マニラの旅 】 ( 10 ) | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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● もう、一か所、皆さんを案内したいと思いますのは、

 マニラの パコ駅の前にある、「 ディラオ広場 ・ 比日友好公園 」

フィリピンと 日本の友好公園に建てられている 「 髙山右近像 」 の

場所です。

 

 高槻の城跡公園や、カトリック小豆島教会 ・ 高岡城 ・ 能登の志賀町 ( しかまち ) など、全部で5か所に建てられています 同じ

 「 髙山右近像 」 ですが、

 ここ、パコは、もと 「 日本人町 」 のあった所です。

 

 しかし、「 ディラオの 日本人町 」 は、髙山右近がマニラにいた時には、まだ ありませんでした。

 147年後の 1762年に出来た町ですので、像が建てられている

場所と、髙山右近とは、直接には関係がありませんが、

 フィリピンと 日本の友好のための像を建てるには、一番ふさわしい

場所であるとして、この場所が選ばれました。

 

 髙山右近ゆかりのマニラの場所である、ディラオ広場 ・ 比日友好公園の 「 髙山右近像 」 の場所に 出かけて行くことにしたいと思います。

 

 

       窓から 「 髙山右近像 」 が 見えてきましたよ!

 

 

 

 

 

 

 この 髙山右近像 建てられていった経過ですが、

 実は、簡単なことでは ありませんでした。

 

 この、「 髙山右近像 建立の計画は、今から44年前の 1973年に、マニラ市の 有力な団体である 環境美化婦人会 それに 

ベネディクト駐日大使の夫人 たちが、マニラ市の バガチン市長に

提案したのが、出発でした。

  

  フィリピンに追放された、有名なキリシタン大名の 髙山右近や、

かつての 在留日本人の遺跡を記念するために、

 旧 日本人居留地である ディラオ の、パコ駅前広場に、モニュメント

日本庭園を造ることは、フィリピン 日本 両国の友好のため、極めて有意義なことではないか。

 あわせて、是非、日本にも 協力を お願いしたい。」

 
 このような提案を受けて、マニラ市は、600坪 ( 2000 ㎡ ) の用地を無償提供するなど、積極的姿勢を示しました。
 
 一方、日本側も、
 髙山右近ゆかりの、高槻市内の諸団体、高槻市 ・ 高槻商工会議所
・ 高槻ロータリークラブ などが 協力して、「 髙山右近像 」 建立支援の
実行委員会が設立され、各方面に働きかけていきました。
 
 3年後の 1976年2月16日には、
 高槻市の 吉田得三市長と、マニラ市の バガチン市長の手で
 「 鍬入れ式 」 が行われ、約2千 ㎡ の公園予定地の整地が行われました。
 
 「 髙山右近像 」 も、日本から 送られてきました。
 
 ここまでは、順調に運んだのですが ・・・・・・・
 
● ここで、待った! が かかりました。
 
 こうした内容の 取り組みの様子が、「 デイリー ・ エクスプレス 」 と
いう新聞で報道されましたら、
 すぐさま、「 タイム ・ ジャーナル 」 という新聞が、二度にわたって、
 “ この計画に反対する! ” ━━ という社説を出したのです。
 
 それに刺激されて、
 戦争中、日本人によって、マニラの街を破壊されて、たくさんの人が
死んだことを経験しています、フィリピン退役軍人会が、バガチン市長に 抗議を申し立てました。
 
 反日感情が エスカレートしていくのを恐れた、フィリピンの大統領府は、翌年の 1977年2月に、「 待った 」 をかけざるをえない ━ という
状況になってしまいました。
 
 万事休す! です。 さあ、どうなったのでしょうか。
 
● むずかしい問題がありましたが、関係者の話し合いが 続けられて
いきました。
 
 最終的には、
 「 マニラ ・ ブリテン 」 という、先ほどの 2つの新聞とは別の新聞に、
テオドロ ・ バレンチア という方が、記事を載せました。
 
 「 ディラオに 像が建てられようとしている 髙山右近は、高貴な生まれで、信仰のために、国を追われた偉人である。
 このような論争を、新聞紙面でするのは、紙のムダである。」
 
 この記事が載って、論争に、一応、終止符が打たれたのでした。
 
 このような経緯があった後、ようやく、工事が再開されました。
 資金調達の目途も 立ちました。
 
● 1973年に話が出て、その後、いろいろなことがあって、4年の
年月 ( としつき ) が たちましたが、
 1977年4月に、「 髙山右近像 」 が、プラザ ・ ディラオ に据え付け
られ、半年後の 11月に 正式に、フィリピン側に引き渡されました。
 
 翌年の 1978年1月末に、
 マニラ市長 ・ 高槻市長 ・ マニラ市環境美化婦人会の皆さん達の
立ち合いのもと、「 髙山右近像 」 の除幕式が 執り行われました。
 
 そして、パコ駅前の、ディラオ広場は、
 「 比日友好公園 」  ( フィリピン ・ 日本 友好公園 ) と 名前が付けられたのでした。
 
 これは、1978年の1月のことですが、
 その 1年後の、1979年1月25日には、髙山右近が仲立ちをする形になって、マニラ市と 高槻市は、「 姉妹都市 」 になりました。
 
 
 
 
 
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