![](https://stat.ameba.jp/user_images/20171226/11/ukon-takayama/60/9a/j/o0600080014098697951.jpg?caw=800)
※ これまでの分は、左列の 【 テーマ 】 のところの
「 福者 ・ 髙山右近と行く マニラの旅 」 をクリック してくださいネ!
● もう、一か所、皆さんを案内したいと思いますのは、
マニラの パコ駅の前にある、「 ディラオ広場 ・ 比日友好公園 」
フィリピンと 日本の友好公園に建てられている 「 髙山右近像 」 の
場所です。
高槻の城跡公園や、カトリック小豆島教会 ・ 高岡城 ・ 能登の志賀町 ( しかまち ) など、全部で5か所に建てられています 同じ
「 髙山右近像 」 ですが、
ここ、パコは、もと 「 日本人町 」 のあった所です。
しかし、「 ディラオの 日本人町 」 は、髙山右近がマニラにいた時には、まだ ありませんでした。
147年後の 1762年に出来た町ですので、像が建てられている
場所と、髙山右近とは、直接には関係がありませんが、
フィリピンと 日本の友好のための像を建てるには、一番ふさわしい
場所であるとして、この場所が選ばれました。
髙山右近ゆかりのマニラの場所である、ディラオ広場 ・ 比日友好公園の 「 髙山右近像 」 の場所に 出かけて行くことにしたいと思います。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20171226/11/ukon-takayama/06/c8/j/o0800060014098697692.jpg?caw=800)
窓から 「 髙山右近像 」 が 見えてきましたよ!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20171226/11/ukon-takayama/92/14/j/o0800060014098697735.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20171226/11/ukon-takayama/b6/15/j/o0600080014098697839.jpg?caw=800)
● この 「 髙山右近像 」 が 建てられていった経過ですが、
実は、簡単なことでは ありませんでした。
この、「 髙山右近像 」 建立の計画は、今から44年前の 1973年に、マニラ市の 有力な団体である 「 環境美化婦人会 」 ・ それに
ベネディクト駐日大使の夫人 たちが、マニラ市の バガチン市長に
提案したのが、出発でした。
「 フィリピンに追放された、有名なキリシタン大名の 髙山右近や、
かつての 在留日本人の遺跡を記念するために、
旧 日本人居留地である ディラオ の、パコ駅前広場に、モニュメント
と 日本庭園を造ることは、フィリピン ・ 日本 両国の友好のため、極めて有意義なことではないか。
あわせて、是非、日本にも 協力を お願いしたい。」
このような提案を受けて、マニラ市は、600坪 ( 2000 ㎡ ) の用地を無償提供するなど、積極的姿勢を示しました。
一方、日本側も、
髙山右近ゆかりの、高槻市内の諸団体、高槻市 ・ 高槻商工会議所
・ 高槻ロータリークラブ などが 協力して、「 髙山右近像 」 建立支援の
実行委員会が設立され、各方面に働きかけていきました。
3年後の 1976年2月16日には、
高槻市の 吉田得三市長と、マニラ市の バガチン市長の手で
「 鍬入れ式 」 が行われ、約2千 ㎡ の公園予定地の整地が行われました。
「 髙山右近像 」 も、日本から 送られてきました。
ここまでは、順調に運んだのですが ・・・・・・・
● ここで、待った! が かかりました。
こうした内容の 取り組みの様子が、「 デイリー ・ エクスプレス 」 と
いう新聞で報道されましたら、
すぐさま、「 タイム ・ ジャーナル 」 という新聞が、二度にわたって、
“ この計画に反対する! ” ━━ という社説を出したのです。
それに刺激されて、
戦争中、日本人によって、マニラの街を破壊されて、たくさんの人が
死んだことを経験しています、フィリピン退役軍人会が、バガチン市長に 抗議を申し立てました。
反日感情が エスカレートしていくのを恐れた、フィリピンの大統領府は、翌年の 1977年2月に、「 待った 」 をかけざるをえない ━ という
状況になってしまいました。
万事休す! です。 さあ、どうなったのでしょうか。
● むずかしい問題がありましたが、関係者の話し合いが 続けられて
いきました。
最終的には、
「 マニラ ・ ブリテン 」 という、先ほどの 2つの新聞とは別の新聞に、
テオドロ ・ バレンチア という方が、記事を載せました。
「 ディラオに 像が建てられようとしている 髙山右近は、高貴な生まれで、信仰のために、国を追われた偉人である。
このような論争を、新聞紙面でするのは、紙のムダである。」
この記事が載って、論争に、一応、終止符が打たれたのでした。
このような経緯があった後、ようやく、工事が再開されました。
資金調達の目途も 立ちました。
● 1973年に話が出て、その後、いろいろなことがあって、4年の
年月 ( としつき ) が たちましたが、
1977年4月に、「 髙山右近像 」 が、プラザ ・ ディラオ に据え付け
られ、半年後の 11月に 正式に、フィリピン側に引き渡されました。
翌年の 1978年1月末に、
マニラ市長 ・ 高槻市長 ・ マニラ市環境美化婦人会の皆さん達の
立ち合いのもと、「 髙山右近像 」 の除幕式が 執り行われました。
そして、パコ駅前の、ディラオ広場は、
「 比日友好公園 」 ( フィリピン ・ 日本 友好公園 ) と 名前が付けられたのでした。
これは、1978年の1月のことですが、
その 1年後の、1979年1月25日には、髙山右近が仲立ちをする形になって、マニラ市と 高槻市は、「 姉妹都市 」 になりました。
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