【 基調講演 ・ 受洗が スタート 】 ( 3 ) | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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       講演者の後ろには、屛風絵のように 木々の風景が ・・・

 

 

● そして、まだまだ 続きます。

 洗礼を受けて キリシタンとなった人たちは、それで終わり ・ 受洗で

終わりではありません。受洗が スタートです。

 

 この 私自身のことを話させていただきますと、

 私は、カトリックではありませんが、プロテスタントの教会のクリスチャンです。いわば キリシタンです。

 

 現在 76歳ですが、56年前の 20歳の時に、洗礼 ・ バプテスマを授けていただきました。

 

 毎日、あるいは 毎日のように、神の言葉である 「 聖書 」 を読んでいます。神の言葉を、毎日を生きていくための指針にしています。

 聖書は、霊の糧 ・ 霊の食べ物と言われますが、

 毎日 ごはんを食べるようにして、聖書を読んでいます。

 

 そして、 「 絶えず祈りなさい 」 とありますが、事あるごとに 祈っています。 「 オラショ 」 しています。

 祈らないで ・ 神に感謝することをしないで、食事をすることは ありません。

 

 何かの集まりがあれば、祈って始めます。そして、祈って終わります。

 家族のために 祈ります。隣り人 ( となりびと ) ・ 隣人のために祈ります。政治のため ・ 世界平和のため、健康のため ・ 病気の人たちの

ため など ━━ 事あるごとに 祈っています。

 

 「 パアテル ノステル ・ 主の祈り 」 などは、一番よく祈っていますが、

 信仰をもって 56年間、一体、何回 祈ってきたでしょうか。

 毎日1回、祈ってきたとしても、365日 × 56年間 ですと、

 20, 440 回 になります。

 それ以上は 祈っていますから、3万回 は越えているはずです。

 

 そのほかにも、隣り人 ・ 隣人に対する 愛の実践が あります。

 当時は、愛のことを 「 ご大切 」 と言っていました。

 ご大切の実践が あります。

 キリスト教の本質は、「 愛 」 です。 「 ご大切 」 です。

 一番大切な教えは、「 愛 ・ ご大切 」 です。

 ミゼリコルジヤ ( 慈悲 ) の実践です。

 

 又、毎週毎週、日曜日 ・ ドミンゴ には、教会 ( エケレジャ ) に集まって、あるいは 家々の教会に集まって、

 主の日 ・ 安息の日 として、礼拝 ・ ミサを ささげます。

 

 クリスマス ( 当時の言い方で言えば、ナタル )、復活祭 ( パスコア )、ペンテコステ などには、特別な礼拝 ・ ミサをささげて、お祝いの

時を持ちます。

 

 こうしたことを、キリシタン達は、洗礼を受けた後、毎日の生活の中で

実践していったのです。

 こういう人たちが、 「 キリシタン 」 と言われる人たちです。

 

● そのような 彼らでしたが、

 トテツもない 強力な政治支配 ・ 政治権力の 迫害や 大弾圧の中で

 ばんやむなく、かくれて信仰を守るほか なくなってしまい、

 「 かくれキリシタン 」 として、その信仰を ひそかに続けていかれたの

です。

 

 “ 背教した ” と言われる人たちであっても、

 一度、魂の奥底まで、救い ・ 恵み ・ 喜び ・ 平安 ・ 愛 といったものを経験されていて、

 それらが、ものの見事に、スッポリと、リセットされてしまう、などという

ことは あり得ません。

 

 そのように 考えるのは、いかにも、非科学的です。

 人の心というものは、そのように 単純なものではありません。

 絶えず 苦しみながら、背教の道を歩んでいったと思われます。

 

 ましてや、そうではない、ほとんどのキリシタン達は、

 強力な 反キリスト教の 政治支配 ・ 政治権力のもとにあって、

 やむなく、寺請制度のもと、どこかの寺の檀家に組み入れられていき、表面上は、仏教のやり方に従ってはいきましたが、

 

 面従腹背、魂の いのちの火は、細々としたものになっていったと

しても、燃え続けていたはずです。

 人の心というものは、政治権力が いかに強力であっても、心の奥底まで変えてしまう ということは出来ません。

 

 彼らは、 「 かくれキリシタン 」 として、その信仰の火をともし続けて

いった ━ はずです。

 

● その、かくれ ・ かくしながら、

 見つかったら 大変なことになる、生命の保障さえないというような

状況の中で、ひそかに 発信されている 信仰の火を見つけ出して、

 今、信仰の自由が、当然の権利として認められている 現代に生きる

私たちが、そのベールをはずさせていただいて、光を当てさせていただいて、

 彼らの生き方から、大切な、いろいろなことを学ばせていただきたい

 

 ━━ というのが、 「 かくれキリシタン研究 」 であると言えると思います。

 

 

 ※ 近年、 「 隠れキリシタン 」 と 「 潜伏キリシタン 」 を分けて考える

  ことが一般的になってきていますが、

  「 全国かくれキリシタン研究会 」 では、

  両方のキリシタン達のことを含めて 研究していく、という思いで、

  あえて、ひらがな書きの 「 かくれキリシタン 」 という言い方をして

  います。

 

 

   ※ 今日 ( 11/21 )の、わが家の生け垣の 【 白さざんか 】

 

 

 

 

 

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