【 右近の弟 ・ 太郎右衛門 のこと 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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           後方の山が 沢城のあった 城山

 

Q. 髙山右近は、何人きょうだい だったのですか?

 

A. 6人きょうだいでした。

 父は 髙山飛騨守 ( ダリオ )、母は 池田氏の娘 ( マリア )。

 

 右近 ・ 彦五郎は長男ですが、1564年、12歳の時に 沢城で、ロレンソ修道士の 天地万物の創造主 ・ デウスの話を聞き、信じて 洗礼を受けていきましたが、母や 他のきょうだい達も同様だったと思われますので、

 

 1年置きに生まれた子ども達であったとして、

 12歳 ・ 10歳 ・ 8歳 ・ 6歳 ・ 4歳 ・ 2歳 ━━ ということになります

から、沢城時代にすでに、6人のきょうだいが そろっていたかもしれ

ません。

 

 弟の一人は、右近が19歳の時、1571年に 戦死しています。

 もう一人の弟の、太郎右衛門が 一番よく 登場してきます。

 

 妹は 3人いて、一人は、荒木村重が 織田信長に謀反を起こした時に

人質となりました。

 あと 2人いたことが、「 マドリード 王立史学士院文書 」 に記されて

います。

 

● 弟 ・ ジョアン 太郎右衛門 ですが、

 [ 伴天連追放令 ] が出され、兄 ・ 右近が デウスを選び取り、信仰を捨てなかった ━━ という知らせを、明石で聞いた時、

 太郎右衛門は、プレネスチーノ神父に、

 

 「 師よ、お喜びくだされ。もし 兄ジュストが、卑怯なふるまいをしたり、何か 主君に悪を働いたために 領国を失ったのなら、我らも共に 名誉を失い、悲しんだことでござりましょう。

 しかし、この度のことは、ジュストが キリシタンの信仰を 捨てなかったために起こったことでござります。

 おおいに 喜ぶべき、名誉なことに ござりまする。」

 

と、喜色と 明朗さを 顔に浮かべて 語りました。

 

 追放令の結果、九州 ・ 平戸に向かう パアデレ達に別れを告げる

ために、父 ダリオと共に、淡路島から 室 ( むろ ) にやって来た時も、

太郎右衛門は、

 

 「 パアデレ殿に お伺い申します。迫害の時、一地方から 他の地方に逃れることは、許されましょうや? また、もし 未信者のもとで生活

せねばならぬなら、ロザリオ 及び聖なる遺物を隠し持つことは 許されましょうや?」

 

と 尋ねて、迫害の中で 生き抜いていく覚悟を示しています。

 

 父 ・ ダリオ飛騨守の信仰 ➡ 兄 ・ 右近の信仰

        ➡ 父や兄の信仰に倣って、太郎右衛門の信仰

 

● その後の ジョアン太郎右衛門は、右近 ・ ジュスタ夫妻と行動を共にしたようで、1589年の オルガンチーノ神父の書簡の中で、

 右近が返書の中で、 “ 妻 ・ 弟を含めた家族が、共に元気でいる ”

ことを伝えてきた ━━ と記しています。

 右近の知行地である 能登に教会堂が建てられていましたが、

ジョアン太郎右衛門の一家は、その 中心メンバーだったようです。

 

 ただ、1614年の 金沢追放のメンバーの中には、太郎右衛門の姿はありませんので、それまでの間に、召天していったと思われます。

 

 

※ 今日 ( 4/23 ) の  “ 近所のお家の 八重桜 ”