金沢にある 立像寺 ( りゅうぞうじ ) に残された 「 右近灯籠 」
● 小西行長の 南肥後への転封 ( てんぽう ) に合わせて、小豆島に隠棲していた 髙山右近一家も 九州に向かいます。
右近は、有馬領にかくまわれている 日本副管区の長の コエリョを訪ねて行きます。コエリョは、この時の右近のことを、次のように語って
います。
「 大いなる驚嘆に値することは、彼が 苦難と貧困の追放に耐えた、
その忍耐と快活さである。彼は、その生命まで、我らの主、イエス ・
キリストに委ねて、確固たる希望の中に生活しているのである。」
● この後、豊臣秀吉の弟の秀長や、前田利家の 執り成しを、秀吉が受け入れ、「 畿内追放、その他の国内での自由を与える 」 という条件で、前田利家が “ 身元引受人 ” となり、“ お預けの形 ” で、右近一家は、加賀の地に移り住みました。
風の便りで、コエリョは、金沢での 右近の様子を聞きますが、よくない噂ばかりです。
「 遺憾ながら、右近殿は 加賀で非常な貧しさに耐えている。自由は奪われ、より一層 追放人となっている。だが 少なからず勇気があり、すべてを忍耐しようと決意している。我々は、関白殿が同地で 彼を殺さぬかと、憂慮している。」
“ お預けの形 ” で 身元引受人となった 前田利家にとっては、形の上では、“ 厳しく扱っている ” ━━ という報告を、関白 ・ 秀吉にしておく必要があったわけです。
しかし、実際には、そうではなかったようで、コエリョの言葉以外で、残されている すべての加賀史料が伝えているのは、そのような扱い ・ 姿では ありません。
前田利家は 秀吉に、
「 右近は、武勇のほか、茶の湯 ・ 連歌 ・ 俳諧にも 達せし者である 」 と 執り成し、
右近に対しては、「 金沢に来たり給へ。三万石ばかり合力すべし。」
と勧め、右近は、
「 禄は軽くとも 苦しからず。耶蘇宗の一ヵ寺 建立下さらば 参るべし 」
と答え、利家も了承し、右近は家族と共に、前田家預けの形で、事実は、客将として 金沢に移って行ったのでした。
その時期は、
千利休の 蒲生氏郷宛の書状によりますと、
「 南坊 昨日 午刻に 宮古 ( 都 ) を立申され候
菊月 廿二日 宗 ( 易 ) 」
とあり、天正16年 9月21日の正午 ( 西暦1588年11月 9日 ) に
旅立って行ったのでした。
※ 今日 ( 4/24 ) の 【 芥川の こいのぼり 】