( 「 四条坊門通りの 第6住居 」 水戸成幸 ・ 画 )
Q. ヴィレラ宣教師が、京の都で 住まいとされていたのは
どこですか?
A. 1551年に、フランシスコ ・ザビエルが 日本を去った後、イエズス会の 日本布教長となった コスメ ・ デ ・ トルレス は、
“ 一日も早く、都で宣教を始めたい ” と願っていましたので、
ヴィレラ司祭 ・ ロレンソ修道士 ・ ダミアン同宿 の3名を、都に遣わしました。
都で 大きな政治勢力を持っている 天皇や将軍はもとより、宗教集団の比叡山の許可を得ることも出来ていませんので、都に定住するまでには、様々な反対を経験しながら、住まいを 転々として 移していかなければなりませんでした。
① 第1住居 ( 14日間 ) 1559年11月初め。 場所不明。
坂本の 尼僧の紹介で、知人の家の納屋。
“ 自宅の裏の、きわめて小さく、非常に狭く、天井の低い、
きたなく、古ぼけた 2階の藁や 古いがらくた等が置かれている
屋根裏部屋 ”
② 第2住居 ( 1か月 ) 1559年11月 ~ 12月。
四条 ・ 新町通の、町外れで、きわめて下層の人たちが住んでいた 革棚町。
山田という寡婦が持ち主の、倒れそうな 掘建小屋。
屋根は 藁で葺いてありましたが、雨が降ると、外と変わらないほど、内部も雨もりがしました。
周囲は壁ではなく、細い葦で囲われていました。
床は、地面に藁を敷いてあるだけ。
③ 第3住居 ( 1か月 ) 1559年12月 ~ 1560年1月。
六角通の 玉蔵町。ある 異教徒の借家。
少しは ましな 掘建小屋。壁は、前住居と同じで、厳しい風や 寒さ
から身を守ってくれるものが 何もありません。
家を、掛布団や 紙で作った十字架などで、出来るだけ飾るように
しました。
珍しさや、反対したり、説教を聞くためだったり、いろんな理由で、多くの人たちが 集まって来るようになりました。
将軍 ・ 足利義輝から、 「 允許状 」 ( いんきょじょう ・ 許可状 ) が
与えられて、
その写しを 戸口に掲げましたので、公然と 侮辱 ・ 投石すること等が
なくなりました。
④ 第4住居 ( 3か月 ) 1560年 1月 ~ 4月。
四条烏丸 ( からすま ) 町の、酒屋の掘建小屋。
屋根を通して、太陽や 月や 星が見えましたし、
家の中に 雨や雪が降ることは、街路と大差がありませんでした。
すぐ近くに、共同トイレがあって、その臭気は堪えられないほど
でした。
デウスの教えが 都に広まるに従って、仏僧や 一般民衆の反対や
憎悪も、ますます激しくなっていきました。
⑤ 第5住居 ( 1か月 ) 1560年 4月。 場所不明。
⑥ 第6住居 1560年 6月 ~
下京の 四条坊門通の 姥柳町 ( うばやなぎちょう ) の、仏僧の
持ち家。
ここに至って やっと、家らしい家が 与えられました。
ヴィレラ司祭は、早速、祭壇と 小さな聖堂を設けましたので、
キリシタン達が、ミサのために集まり始め、又、洗礼が授けられて
いきました。
ヴィレラ司祭たちは、この地において、過ぐる8か月間というもの、
絶えず悩まされてきた 多くの迫害と 困窮から、いくらかは安息が
とれるようになりましたが、
1年後には、新たな嵐が押し寄せて来て、
1561年 8月 ~ 1562年 9月までは、堺の町に逃れて、堺で宣教していくことになります。
ここ 姥柳町には、後日、織田信長の時代に、
いわゆる 「 都の 南蛮寺 」 ( 被昇天の サンタ ・ マリア教会 ) が、
1576年に 献堂されていくことに なりますよ!
( 「 都の 南蛮寺 」 水戸成幸 ・ 画 )