【 支倉常長 の 墓 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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      ( 「 支倉常長 メモリアルパーク 」 )

  ~ 仙台領の キリシタン遺跡 ・ 殉教地を巡る ~

● 「 支倉常長 」 は、「 慶長遣欧使節 」 として、はるばる スペイン や イタリアのローマにまで出かけ、スペイン国王 フェリペ3世 や ローマ教皇 パウロ5世 との謁見を果たしましたが、仙台藩主 ・ 伊達政宗から託されていた 交渉は成功せず、そればかりか、帰国後には、日本では、キリスト教に対する 「 大禁教令 」 が出されていました。

 洗礼を受け、キリシタンとなっていた 支倉常長でしたが、

 藩主 ・ 伊達政宗に報告し、持ち帰った 「 慶長遣欧使節 関連資料 」 ( 油絵肖像画 や 「 ローマ市公民権証書 」 など ) を手交した後は、
隠棲するようにして 世の中との接触を避け、伊達氏による “ キリスト教弾圧 ” が 厳しさを増していく中、人里離れた地で 余生を送り、
 1621年、84歳の 波乱に満ちた生涯を閉じていきました。

● 「 支倉常長の墓 」 が、3個所にあります。

 ① 伊達政宗が 北山界隈に配した “ 北山五山 ” の一つで、
    仙台市にある 「 光明寺 」

 ② 支倉氏の居城 「 上楯城 」のあった 城下にある、
    柴田郡川崎町の 「 円福寺 」

 そして、本命ではないかと思われるのが、
 ③ 今回、「 全国かくれキリシタン研究会 東北大会 」 の みんなで
    訪れた 「 支倉常長 メモリアルパーク 」

 
     

● 支倉常長が隠棲したと 言い伝えられていますのは、
 黒川郡 大郷町 ( おおさとちょう )。

 ここ 大郷町東成田地区西光寺には、常長や 家臣が住んでいたと
言い伝えられている 「 支倉屋敷跡 」 がありますし、

   「 梅安清公禅定門 承応三年二月十七日 支倉氏 」

と刻まれた 古碑があって、地元では、古くから、
   “ ここに隠棲した 「 支倉常長の墓 」 である ”
と 語り継がれてきました。

 だれにも 常長の墓だとわからないように、「 支倉氏 」 とだけ刻み、
 常長の義弟 ・ 新右衛門常次 の家中の人々によって、代々 守られてきましたが、

 この支倉家に 跡継ぎがなくなって、
 家来の 伊藤嘉兵衛 が、旧主家のために、五代にわたって 墓を守り続けて来たのでした。

 今は、「 支倉常長 メモリアルパーク 」 として整備され、
 公園の入口には、「 支倉常長 」 の銅像 ( 佐藤忠良 ・ 作 ) が 建てられています。