【 岩倉使節団 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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   ~ 仙台領の キリシタン遺跡 ・ 殉教地を巡る ~
 
Q. 「 支倉常長 」 や 「 慶長遣欧使節 」 の再評価に関係があった 「 岩倉使節団 」 というのは、どのようなものだったのですか。

A. 「 岩倉使節団 」 というのは、
 明治4年 ( 1871.12.23 )から 明治6年 ( 1873. 9.13 ) までの
1年10か月にわたって、
 アメリカ合衆国 ・ ヨーロッパ諸国の視察のために派遣された、
総勢107名の 大使節団です。

 使節46名、随員18名、留学生43名。

 特命全権大使  岩倉具視
 副使     木戸孝允 ( 桂小五郎 )、 大久保利通
         伊藤博文、 山口尚芳

 留学生 ( 43名 ) の中に、
  中江兆民 ( イギリス留学 )、津田梅子 ( 9歳 ・ アメリカ留学 )
 随員 ( 18名 ) の中に、新島襄が 通訳として参加しています。

 1871年12月23日に、蒸気船 「 アメリカ 」号で 横浜港を出発し、
サンフランシスコ から アメリカ大陸を横断して、ワシントンD.C. まで
約8か月の視察 ・ 滞在。

 その後 大西洋を渡り、ヨーロッパでの訪問国は、

イギリス ( 4か月 )、フランス ( 2か月 )、ベルギー、オランダ、
ドイツ ( 3週間 )、ロシア ( 2週間 )、デンマーク、スウェーデン、
イタリア、オーストリア ( ウィーン万国博覧会を視察 )、スイス
の 11か国。

● この中の、イタリア ・ ヴェネツィア を訪れた際、「 支倉常長の書状 」 を発見したことが、「 慶長遣欧使節 」 の 再評価の きっかけとなったのでした。

 その後、地中海から スエズ運河を通過し、紅海を経て、アジア各地 ( セイロン ・ シンガポール ・ サイゴン ・ 香港 ・ 上海 ) を訪問し、出発から 1年10か月後の 明治6年 ( 1873年 ) 9月13日に、横浜港に帰着したのでした。

 一国の 新政府の中枢が、国を離れ、長期間 外国視察をするということは、極めて異例のことでしたが、
 直に 西洋文明や思想に触れ、しかも、多くの国情を比較体験する機会を得たことの影響は、大きかったと言えます。