~ 仙台領の キリシタン遺跡 ・ 殉教地を巡る ~
● 「 支倉常長 」 ━━ と、一般には呼ばれていますが、本人自身、
そのように呼ばれたら、
「 それって、誰のこと? 」 と 思ってしまいますよ!
自筆の史料では、
「 六右衛門 」 あるいは 「 六右衛門 長経 ( ながつね )」 です。
自分で、「 常長 」 と名乗ったことはありません。
「 常長 」 という 諱 ( いみな ) が登場するのは、彼の死後のことで、
支倉家が、息子の時代に、家来がキリシタンであることが発覚して、一時期 “ お家断絶 ” になりますが、その後再興した時に編纂された 「 支倉家の系図 」の中に、初めて登場してきます。
もしかすると、先祖がキリシタンであったことを隠すために、「 長経 」 ( ながつね ) の使用を忌避して、「 常長 」 と隠し偽って 記録していったものと 思われるんですよ!
● 今の時代、多くの人たちが 「 支倉常長 」 の名前を知っているわけですが、
1613年に、仙台藩主 ・ 伊達政宗の命を受けて、「 慶長遣欧使節 」 として ヨーロッパに向かったことを、当時の日本人が知るはずはありませんし、
・ 1615年2月17日、スペイン国王 フェリペ 3世らの臨席のもと、王立修道院の付属教会で 洗礼を受けて、キリシタンになったこと。
支倉 フィリッポ ・ フランシスコ 六右衛門 長経
・ ローマでは、「 ローマ市公民権証書 」 と 貴族の位が 授与されたこと。
これらの事実はすべて、徳川幕府のキリシタン弾圧 ・ 鎖国政策 などにより、闇に葬られてしまいました。
支倉常長たちは、
“ 太平洋と大西洋の 二つの大洋を横断した 最初の日本人 ” となりましたが、
航海と訪欧の 貴重な記録は、幕府の弾圧を恐れて、「 航海日誌 」 を筆頭に、すべて 帰国前に廃棄されてしまいますし、
使節団と、「 サン ・ ファン ・ バウティスタ号 」 の航海に関する 公的記録書は 残されなかったのです。
こうして、はるばる ローマまで往復した常長でしたが、
その交渉は、成功せず、そればかりか、帰国時 ( 1620年9月20日 ) には、キリスト教に対する 「 大禁教令 」 が出されていましたから、キリシタンとしての歩みも、ままなりません。
2年後の 1622年8月7日、失意のうちに 亡くなっていきました。
━━ というわけですから、「 支倉常長 」 のことなど、日本人の誰も、知っているはずがなかったわけですが ・・・・・・・
● 「 支倉常長 」 の名前や、「 慶長遣欧使節 」 のことが 人々に知られるようになったのは、
使節派遣から 250年以上の時が経過した、1873年 ( 明治6年 ) のことです。
江戸幕府崩壊後、明治新政府は、岩倉具視を 全権大使として、先進発展する欧米視察の使節を送りましたが ( 「 岩倉使節団 」)、
1873年5月に、遣欧使節団が イタリアの ヴェネツィア を訪れた際、「 支倉常長の書状 」 を発見しました。
その他、ヨーロッパで 常長たちの遺した事跡に出会い、日本では忘れられていた 常長たちの存在が注目されることとなりました。
250年以上も前に、日本の外交使節が、スペインで 外交交渉を行い、ローマまで 派遣されていた ━━ という 衝撃的な事実を知り、
欧米に対して、大きな劣等感に苛まれていた 岩倉たちは、大いに勇気づけられたのでした。
このようにして、「 支倉常長 」 や 「 慶長遣欧使節 」 に対する 再評価がされていき、
常長たちが持ち帰り、仙台藩が秘かに保管していた 「 慶長遣欧使節関係資料 」 が明らかになり、公開されていったのでした。
( 国宝 「 支倉常長像 」 )
※ 実在の日本人を描いた
日本国内 最古の油絵