【 髙山右近の娘 ・ ルチア 小菊 のこと 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. 髙山右近の娘には、子どもがいたのですか?

A. 髙山右近の娘・ルチヤは、「加賀八家」(はっか)として、本多・長(ちょう)につぐ横山長知の嫡男・康玄(やすはる)に嫁ぎました。

 二人の間には、「胤長」(たねなが)という幼子がいましたが、ルチヤが、夫や横山家に類が及ぶことを考えて、離別し、父右近と共に マニラに追放の道を選びましたが、胤長は、右近の知行地であった 羽咋郡志賀町(はくいぐん しかまち)・二所宮の横山家の分家に預けられました。

 二所宮の横山家には、「髙山右近子孫之墓」の 十字架の墓碑があり、そばの説明石板には、ルチヤのことを「小菊」と記していますよ!

 秘かに、母ジュスタと共に マニラから戻って来た ルチヤ小菊ですが、一度は 横山康玄 あるいは 胤長に会ったようです。

 しかし 何しろ、徳川の大禁教下、今は加賀藩の重要な家老となり、別の女性と家庭も持っていますので、迷惑をかけられません。

 その後は、どうしたのか? 

 大分には、右近・ジュスタ夫妻の次男・亮之進がいます。この亮之進に匿われるようにして 秘かに、大分で 横山家を守り継いでいったのかもしれませんネ!
 大分の横山家の 「卍」の家紋は、金沢・横山家の家紋です。


● 「 キリシタン文化研究会 会報 」 の 143号 ( 2014年5月発行 ) に、木越邦子さんが、
  「 マニラから 加賀藩に戻った 髙山右近の家族 」 
         ━━ 1616年、長崎発信の 書翰より ━━
と題した論文を発表されています。

 髙山右近が 1615年2月3日 に フィリピンのマニラ で召天した後、妻ジュスタ や 娘ルチア、長男ジョアン十次郎の子 (孫) の一人が 帰国した とされてきましたが、そのことが記されている 【 1616年 長崎発信の ジェロニモ ・ ロドゥリーゲス 書翰 】 の文章は、確認出来ないままでした。

 それを、木越さんが、1974年にトレドの文書館で撮影された、この 長崎発信書翰 ( ポルトガル語文 ) のコピーを入手され、高瀬弘一郎氏による 翻訳の協力を得て、その文章を紹介してくださっています。

 発信者である ロドゥリーゲス師は、この年 1616年には、イエズス会の 日本準管区長 をされていました。 ( 1615 ~ 1617年 )

 そのことが記されている個所ですが、

「 われらの主は、彼 ( ※ 髙山右近 ) をマニラで 御許 ( みもと ) に召し給うた。彼の妻 ・ 娘 ・ および 孫たちの一人は 日本に戻ってきて、秘密にしてはいるがキリスト教徒である 彼の婿 ( ※ 横山康玄 ・ やすはる ) が、彼らに会った。 」

 帰国後の 彼らの動向については、徳川 大禁教下のことでもあり、残念ながら、書き残された史料は 見つかっていません。