大地震で大破した、都の大仏の後日譚 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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 話は少しさかのぼりますが、永禄10年(1567)10月10日、奈良・東大寺大仏殿が猛火につつまれ、焼け落ちてしまいました。

 三好三人衆と松永久秀との間の争いで、二月堂や大仏殿の廻廊などに陣取りしていた三好三人衆に対して、10月10日の真夜中ごろに、松永方が夜討ちをかけ、合戦の中で、諸堂に火がつき、広がって、大仏殿が焼け落ちてしまったのでした。

 大仏は、全体が溶けてしまったわけではありませんが、頭は落ち、両手は折れ・・・・ 無惨な姿でした。5年後の元亀3年(1572)に、頭だけはとりあえず、木の上に銅板を張った形で修復されました。

 本格的な、東大寺大仏殿の再建は、江戸時代の半ば・宝永6年(1709)のことですので、秀吉の頃には、東大寺大仏殿はありませんでしたし、大仏も、まともな形ではなかったのです。
 秀吉は、この東大寺の大仏殿と大仏を再建するのではなく、京の都の東山に、「新大仏」を建立すべく、天正16年(1588)5月から、普請をスタートさせたのでした。

 諸大名に負担が課せられ、膨大な数の人足や材木の調達、専門的な技術者・番匠(大工)や諸職人[年間20万人の動員]、そのための食糧や人件費・・・・等々々。
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 文禄5年(1596)、丸8年かけて完成にこぎつけることが出来、完成を祝い「大仏開眼」(かいげん)の儀式を行う「大仏供養会」(くようえ)も、8月18日に決定し、準備がすすめられていたのですが・・・・・・・・・・

 なんと、閏7月13日の深夜・午前2時ごろ、後に「慶長伏見大地震」と呼ばれる大地震が発生し、秀吉がいた指月山・伏見城も倒壊し、新大仏も、大仏殿は事なきを得ましたが、本尊の大仏は大破してしまったのです。左手は落ち、胸も崩れ、全身にひびが入ってしまいました。

 秀吉自身は、城中の500人以上が亡くなる中、なんとか生命からがら、助かったわけですが、新大仏が畳の面(おもて)でつつまれている、無惨な姿を見て、
「かように、わが身を保てえざる仏体なれば、衆生済度(しゅじょうさいど)は、なかなか思いもよらず。・・・・・早々崩しかえ。(すぐに壊してしまえ!)」との命令を出し、柔弱な大仏の修復をあきらめて、当時、甲斐の国にあった「善光寺如来」を本尊として迎え、大仏殿に安置していきます。
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 この時期、秀吉の病状が悪化していきます。
 善光寺如来の霊力をもってしても、秀吉を死の淵からすくい出すことは出来ず、むしろ、如来像を京の都に持ってきたことが「御祟り」(たたり)や「不吉の兆」(きざし)を招いたのではないかとの恐れから、近侍の者たちで急に決めて、秀吉が亡くなる前日(8/17)、京の都からあわてて、善光寺の方に帰してしまいます。

 しかし、すべてのかいなく、秀吉は18日、亡くなってしまいました。

 さてさて、その後の話・後日譚です。
 善光寺如来が帰されてしまいましたので、又又、大仏殿の中には本尊はなく、カラッポになってしまいます。
 秀吉が亡くなってまもなく、大仏の再建計画がもち上がります。そして、慶長4年(1599)の5月に、大仏造立(ぞうりゅう)がスタートします。

 大仏殿が残されていますので、大仏殿の中での作業になっていきますが、胴体は木で型を作り、その上に土を塗り、更にその上に銅を鋳(い)かけて仕上げます。頭と手は重いので、別に木だけで作り、持ち上げて、胴体とくっつけました。

 作業がすすみ、完成間近い慶長7年(1602)12月4日の午前8時頃、大仏の鋳かけ作業で、足の膝の穴をふさごうとしていたのですが、金湯(かねゆ)が、からだの部分の中に入ってしまいます。
 中は木で出来ていて、空洞になっていますから、たちまち、全身火となってしまい、完成間近い大仏は勿論のこと、大仏殿までも炎上してしまい、4時間ほど燃えつづけ、すべてが灰燼(かいじん)に帰してしまったのでした。

「太閤 数年の御労功、ほどなく滅しおわんぬ。」 (醍醐寺・三宝院門跡の義演のことば)

 ※ 「豊国祭礼図屏風」 右上にあるのが「大仏殿」

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