豊臣秀吉の最期のようすは? | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. 豊臣秀吉の最期は、どのようなものだったのですか。

A. 豊臣秀吉が亡くなった場所は、大地震で倒壊した指月山・伏見城に代わってすぐ建てられた、木幡(こわた)山・伏見城です。

 秀吉は、文禄4年(1595)頃から、常に病気がちになりました。
 翌5年(1596)の春には、かなり深刻な状態に陥っています。
 回復を待って、急きょ、まだ4歳だった御拾(おひろい・後の秀頼)の後継準備を、諸大名等に対してすすめていきます。

 そのような中、閏(うるう)7月13日未明(午前2時頃)、後に「慶長伏見大地震」と呼ばれる、大地震が発生。
 指月山にあった伏見城は倒壊。城中の500名以上が亡くなる中、秀吉は助かります。
 8/18に、完成を祝う「大仏開眼」(かいげん)をする「大仏供養会」(くようえ)が予定されていた、新大仏が大破してしまいます。

「本尊(大仏)は大破、左の御手崩れ落ちおわんぬ。御胸崩れ、そのほかところどころに響(ひび)これあり。」 (「義演准后日記」)
「かように、わが身を保てえざる仏体なれば、衆生済度(しゅじょうさいど・人々の悩みを救い、悟りを得させる)は、なかなか思いもよらず。」 (「当代記」)
「本尊御覧、早々崩しかえのよし仰(おお)すと うんぬん。」 (「義演准后日記」)
大仏の姿をまのあたりにした秀吉の、「早々崩しかえ」(すぐに壊してしまえ!)の命令で、壊されてしまいます。

 そして、大仏に代わって、当時、甲斐の国にあった善光寺如来像を取り寄せて、大仏殿に安置しています。

災いつづきの文禄5年の10月、「慶長」に改元。
翌慶長2年(1597)10月頃から、秀吉の病状は、ふたたび深刻な状態になっていきます。

● 慶長3年(1598)
・ 6/2 腰が立たなくなる。
・ 6月終わり頃 赤痢(?)・胃痛
・ 7/15頃 諸大名・奉公衆・公家・門跡たちに、遺品のつもりで、金銀・刀などを拝領。
・ 7/22 徳川家康・前田利家などを病床に呼び、4時間ほど懇談。しばらく食べられていなかったが、汁物で食事。
・ 8/4 宣教師ジョアン・ロドリゲスの見舞い
 「純絹の蒲団のあいだで、枕に頭をのせて横臥し、もはや人間とは思えぬばかり、全身痩せ衰えて・・・・・。 8月5日に病状は悪化して、生存は絶望となるにいたりました。」
・ 8/7 石田三成などを「五奉行」に定め、執政を申し付け。
・ 8/18 ついに、死去。62歳。
 ※ 但し、年末までその死は隠密にされ、遺体はそのまま、伏見城内に安置されていた。

● 辞世として伝えられている和歌
「 つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ 」 
この和歌は、死を目前にして、伏見城で詠まれたものではなく、死の10年ほど前、聚楽第が完成した時に詠まれたもの。それを、侍女の孝蔵主(こうぞうす)に保管させていました。その和歌を、死の前日(8月17日)に取り寄せ、日付を書き添えて辞世にしたとのことです。
                   (江戸時代・真田増誉「明良洪範」)

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