織田信長の遺体はどこに? | 高山右近研究室のブログ

高山右近研究室のブログ

・右近についての、Q&A 
・右近研究こぼれ話 など

監修 右近研究家・久保田典彦
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/

Q. 「本能寺の変」の時、自害したはずの織田信長の遺体が、どうしても見つからなかったそうですが、一体、どうなったのですか。

A. 質問されているあなたが、単なる興味本位だけからではなさそうですから、お教えしましょう。

 明智光秀は、それが目的で、重大な「本能寺の変」を起こしたわけですし、士卒たちに “ 信長の遺骸を見つけだすように ” との特別の命令を下していましたのに、ついに、信長の遺骸を見つけ出すことが出来ませんでした。

 このことは、ごくごく普通に考えてみても、ありえないことです。でも、焼け跡を掘り返し、すみずみまで調べ尽くしたはずですのに、それらしきものさえ見い出すことが出来なかったのです。

 それは、そのはずです。最早、その時には、信長の遺体(遺骨)はそこにはなかったのですから。

 毎年、「本能寺の変」のあった6月2日(天正10.6.2)に合わせて、京都・上京区にある「阿弥陀寺」で、追善供養がもたれています。阿弥陀寺には、織田信長・信忠や森乱丸など討死衆のお墓があります。

●「阿弥陀寺由緒略記」より

 信長公遺骨所たる正しき由緒は、当山・清玉上人は、元来織田家に深き因縁あり。信長公と年来別懇の人なり。
 時に天正十年六月二日、明智光秀叛逆の時、清玉上人は信長公の旅館・本能寺に押し寄せるを聞き、塔頭(たっちゅう)の僧徒廿人余を召し連れ、本能寺に馳せつけられしに、表門は厳重に軍兵四方を囲み、寺内に入る事出来ず。裏道より辛うじて入るが、堂宇に火が放たれ、すでに信長公割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり。上人がこれを見るに、信長の家臣なり。之に顚末を聞くに、信長公割腹の時、必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり。しかし、四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし。やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと、一同答えたり。
 上人は、私と信長公とは格別の由縁あるを以って、火葬は勿論・将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ、信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵に向かうすきに上人火葬し、白骨を法衣につつみ、本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで、苦も無く帰寺し、白骨を深く土中に隠しおきたる。
 
 信長公後継ぎ・信忠公、同時に二条城新殿にて光秀と闘い生害して、死骸を敵に渡さざる為、火中に投ぜしと聞き、如何ともして信忠公の遺骸を得んことを苦慮し、同日昼八つ時頃(今の午後二時)光秀七条河原にて休憩する時、上人陣中見舞いとして、多分の餅や焼飯らを携え光秀に呈して、本能寺並びに二条城に於ける戦死者中に檀越(だんおつ・檀家)の者多し。故に遺骨を阿弥陀寺に葬り度き旨を請ふ。光秀、志を感じ、随意にすべしと易く許容ありければ、直に寺僧数多引き連れ、二条城・本能寺に馳せ参り、信忠公の遺体を初め、討死の者の死骸を阿弥陀寺に持ち帰り、暫く時日を経て塔頭の僧徒らと密かに、信長公を始め戦死者の葬儀を執行せしを以って、信長公の墓所は阿弥陀寺にあるのみにして、この由縁ある墓所なれども、自今にては荒涼の姿となりたる理由は、信長公生害の時は、秀吉西国にありて凶報を聞き、光秀を亡し入京して天下の武将となり、信長公の遺骨 阿弥陀寺にあるを知りて、法事執行の沙汰ありしに、清玉は、相当の法事はすでに営みたりとて受けず。これによりて秀吉、法事料として三百石の朱印を下附されしに、清玉上人辞して受けず。秀吉三度まで使いをして、永代墓所供養のため寺領に受け置く可しとのことなれど、前言を固辞して受けず。
 
 ここに於いて秀吉が憤り、新たに洛北紫野・大徳寺境内に一寺を建立し、信長公の法名を採って摠見院と号し寺領を与え、この寺にて法事らを執行せられたり。

※ 「言経卿記」(ときつねきょうき)で、当時の貴重な史実を日記として残してくれた公家の山科言経が、本能寺の変後、約一ヶ月たった7月11日に、この阿弥陀寺に詣でて、信長以下の「本能寺の変」の犠牲者を弔ったことが記録されています。

※ 下の写真は、阿弥陀寺にある織田信長(右)と信忠(左)のお墓

$高山右近研究室のブログ