キリシタン時代の「教会」は、どのようなもの? | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. キリシタン時代の「教会」は、どのようなものだったのですか。

A. [新約聖書]の「使徒行伝」(使徒の働き)に記されている「家(々)の教会」(2章46節)です。

 2000年前の「使徒行伝」に記されている初代教会の頃もそうですし、400年前のキリシタンの時代の頃も同じですが、聖霊なる神が、力強く働かれて、毎日、人々が救われていきました。家族単位で救われていきました。そして、洗礼・バプテスマを受けていきました。

 髙山右近が城主だった「高槻」の町でも、年ごとにキリシタンの数は増え続けていって、4千人から8千人、1万4千人、そして天正9年(1581年)には、前の年より更に4千人増えて、1万8千人。領民の人口・2万5千人のうち、1万8千人。72%。10人のうち、7人以上がキリシタンになっていったのです。

 そして、信じられないことかもしれませんが、この1万8千人のキリシタン達に対して、高槻常駐の司祭は、一人もいなかったのです。1万8千人のキリシタンに対して、司祭・教職者はゼロなんです。
 宣教師たちが、ときどき、巡回して来てくれるだけです。

 教会堂は、高槻城内にあったものと、領内のお寺や神社の信徒たちが、どんどんキリシタンになっていく中で、キリシタンの集まりの場所・教会になっていったものが、20ほどあったと記されています。

 常駐の司祭がおられない中での、1万8千人のキリシタンですから、そのままでは、日曜日ごとの礼拝・ミサもささげられません。
 高槻での、はっきりと残された記録はありませんが、他の地域での記録をもとにしてみてみますと、1組50人ぐらいの「小組」と呼ばれる、信仰共同体としての「教会」(エケレジャ)があり、各組には、信徒リーダーがいました。呼び方は、地域によっていろいろですが、「組の親・親方・組頭・談義者」などと呼ばれていました。

 信徒の代表的な人たちが中心となって、その人の家屋敷にみんなが集まって、日曜日の礼拝・ミサをささげていきます。

 主日のための福音書(部分訳ですが)や信仰書を朗読し、説明します。みんなでお祈りをします。説教についての分かち合いをします。賛美の歌をうたいます。
 週の途中の日には、お葬式・病人の訪問。結婚の司式、あるいは証人となります。子どもに洗礼を授けます。勉強会をして、教理書を何回もくり返し教えて、暗記して覚えていくように指導します。

 司祭がおられない中で、教会の中心・徹底して教会を守っている人が「組の親」あるいは「談義者」と言われる人たちでした。
 グループの50人にも、それぞれ役わりがありましたよ。
お金を扱う人、病人を見舞う人、教える人・・・・・などなどです。

 髙山右近が城主だった高槻では、どうだったのでしょうか。

 1万8千人のキリシタンであったわけですから、1組50人として、18000÷50で、360ほどの、共同体としての「教会」があったことになります。
 そして、その小組がいくつか集まって「大組」を作ります。それぞれの大組には、親がいました。右近さんの頃には、お寺も神社もどんどん、キリシタンの集まりの場所となっていきますから、20ほどの教会堂があったと伝えられています。
 ということは、20ほどの「大組」があったことになります。

 そして、更に、その大組が全部集まって「総組」を作ります。そして、「総親」と呼ばれる、全体をおさめている人・信徒がいました。
 髙山右近は、いわば、360ほどの小組、そしてそれらが集まった大組、そしてそれら全部が集まった総組である「高槻教会」全体の「総親」としての信徒リーダーだったと言えるのです。

 キリシタンの集まる所が「教会」(エケレジャ)。そして、信徒が、自分たちで、協力しながら、助け合いながら教会を維持し、自分たちの共同体を作っていっています。
 その共同体がある所を、神父さんが巡回していくのです。

 特別な教会堂があるわけではありません。キリシタンたちがグループを作って集まっている所、大方は談義者たちの屋敷、そこが「教会」なんです。聖書で言われている「家の教会」なんです。

 こういう教会のあり方だったんですよネ。そして、この教会は、力強い、キリシタンの数をどんどん増やしていく教会だったんです。

 こういったことがわからないと、キリシタン時代を理解するのはむずかしいかな、という気がします。

● こうした、キリシタン全体の、信仰共同体としての「教会」(エケレジャ)とは別に、「ミゼリコルジャの組」と呼ばれる、同じ志をもった100人位のメンバーからなる信徒会が、長崎や京都・大坂・堺などに結成され、キリストの愛にもとずく慈善活動をしていきました。

 しかし、これは「教会」とは別のもので、現代で言えば、聖書配布活動を続けておられる「ギデオン協会」のような構成・組織であると言えるでしょうか。

● フロイス・著「日本史」(中公文庫・第3巻第66章)

 一種の組を組織し、種々の階層、職域のキリシタンがその中に振り分けられ、グループができ、日曜日ごとに全員は一軒の家(複数)に集合し、長時間にわたって霊魂のためになる行事を催して過ごすのである。そのためには、霊的な書物を読み、それについて語らい、皆でいっしょに短い祈りを唱え ・・・ 祈願した。

 これらの家においては、復活祭、降誕祭、その他の主要な祭日を祝い ・・・。都だけでも、こうした組が、七つか八つ出来ており、女性たちは女性たちで、男性とは別に、これまた同じ仕方で互いに組を組織する方法を講じている。

 我らの主なるデウスは、こうした組織をよりよく運営させるために、ほとんどあらゆる場所において、何人かのひときわ熱心で献身的なキリシタンをあてがい給うた。それらのキリシタンは、これらの組頭のような役を果たし、他のキリシタンたちは彼らに対して深い尊敬と愛情を示し、一同は、見事に信仰を保っていくのである。

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         ( 木俣清史・画 )