ただいま、おかえり -7ページ目

ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

Kさんがカウンセリングの治療を受け始めて、1年半が経過した。

ある時、カウンセラーの先生から、人間関係について次の二つを心がけてみるようアドバイスを受けたそうだ。

1、人に気を使わない
2、相手に嫌われても構わない

人に気を使わないってどういうことだろう??
と、それまで相手にずっと気を使ってきた K さんは疑問に思った。

相手に嫌われても構わない。
そんな、、、。

始めは漠然として、どのような意図があるのかわからなかったそうだ。



この二点はさかのぼること、乳幼児期の初めての人間関係がどうであったかに多分に影響する。
乳幼児期の初めての人間関係とは、まさに多くは母親との人間関係が当てはまる。

赤ちゃんは、お母さんに気を使うだろうか?
赤ちゃんは、お母さんに嫌われまいと泣くのを我慢したりするだろうか?
生まれて間もない赤ちゃんが、このようなことを考えて、お母さんと相対するわけがない。
人は最初は間違いなく、お母さんに全力でぶつかるのだ。

しかし、10 年、20 年の月日を経た親子関係を見てみよう。
お母さんに気を使わず、会話ができる親子がどれだけいるだろう。
おそらく100 % の親子には当てはまるまい。

そして、お母さんに嫌われまいと、自分の行動を我慢したりすることは、、。
多くはないかもしれないが、そんなに少なくない親子関係で、お母さんに嫌われまいと努力する子供がいることであろう。

K さんとしみじみ話したことは、人間は思いもよらぬほど大きな影響を、お母さんの言葉や態度から受けているということだ。
人が育っていく過程で、お母さんにかけられた言葉や態度で、子供の人生が染め抜かれていくといっても過言ではないと思うのだ。

K さんはこれまで、お母さんは優しいと思っていたそうだ。
しかし、真摯に自分と向き合ううちに、お母さんの本当の姿が見えてきたという。
表面上は優しく見えたけれど、実際にやっていたことは、子供にとって最悪だった。
抱っこして頬ずりしたり、ふざけあったりするようなことはなく、お母さんから愛されているのか不安になったという。

K さんはいつも、お母さんの顔色を伺って生きるようになったそうだ。

気づけば、いつもお母さんに好かれたくて、お手伝いをしたり、気を利かせたりするようになったという。
「お母さんは私のことが好きかしら?」
「お母さんに嫌われたらどうしよう」

この発想が K さんの人間関係の軸になった。

だから、K さんは友達と話すときにとても緊張する。
人数が多いと、話せなくなったり、気持ちが高ぶって涙が出てくることもある。
また、常に友達に嫌われないように、必要以上に良い人になろうと必死で心を砕く。

気の毒にと、客観的な感想を持たれたかたがいるかもしれないが、考えてみてほしい。
世の中に、本心の伴わない良い人がなんと多いことか。

一歩間違えば、本心の伴わない良い人に、、、なってはいないだろうか。
人に嫌われることを極端に恐れる人が増えていないだろうか。

この背景には、個々の最初の人間関係が大きく影響しているのではないか。
最初の人間関係につまづく人が増えているのではないかと思うのだ。

どんなに便利な時代が来ようと、試験管の中で生命が誕生しようと、人が成長する過程に必要な心の養分は、省略することはできない。

子供は抱っこして、頬をすり寄せて、その存在を大きく肯定し、大きな安心を与えて育てる必要がある。
一人っ子であろうが、10 人兄弟姉妹であろうが、それが生命をこの世に送り出す大人の責任である。
何度も書くが、大切にできない、責任の持てない生命を送り出してはいけない。
(だからと言って、思慮の浅い中絶などもってのほかだ)

K さんは、
「でもさ、何も気づかないで死んでいく人生じゃなくて良かったよ」
と健全さを勝ち取るために、今までの不足を取り返している最中である。
A さんは、成人してから自分の心の不自由に気づき、カウンセリングを受け始めた。
自信がなく、いつも何かにビクビクしていた。
そして常に心にかけていたことがある。
それは、思いやりのある行動だ。

従って A さんはいつも注意深く自分の周りの人を観察していた。
そして、本当に優しく周りの人たちに振舞っていた。
ランチに行く約束をした同僚は、きっとアジア料理が食べたいにちがいない。
よし、お店に頼んで美味しいお茶も用意してもらおう。
とか。

今度の休みに遊びにくる友人は、肉料理が好きだから、ほろほろに柔らかいお肉を煮ておいてあげようなどなど。



A さんの生活は、常に他人が最優先であった。
それが当たり前だと思っていた。

A さんは小さい頃から、「人の嫌がることをしたらいけない」
「いつも他人に思いやりを持って行動しなさい」
など、厳しく言われて育ってきた。

初めて言われた時は全く理解できず、どうしたら良いのか途方にくれた。
とにかく人の顔を見て、笑顔になることを選択するようになった。

時々一人の休日を過ごすと、どっと疲れが出た。
どうして疲れるのか、わからなかった。

ある時、カウンセリングを始めてから、こんなことを言われたことがある。

自分の人生の中心に自分がいない
と。

しかし A さんは、人のことを考えて生きろと言われて来たから、ちっとも間違っているとは思っていなかった。
ところがその生き方は間違っていると、はっきりと指摘されたのだ。

自分の人生になぜ他人を介在させるのか?
自分の人生なんだから、シンプルにその中心に自分をおけば良いと言われたのだ。

A さんは、お母さんに言われたから、疑いもせず、他人中心で真剣に生きて来た。

必要以上に他人を重んじ、自分は二の次三の次になるため、隅っこに追いやられた自分が、実はフラストレーションを抱えていたなど、気づく筈もなかった。

ある時、ぐったりとして一人の休日を過ごした時、冷静に自分の心の声を聞いてみた。
「今日は誰とも話したくない」
「今日は誰にも気を使いたくない」
小さい心の声が聞こえたのだ。

自分をないがしろにした疲れが、ピークに到達する寸前だった。
お母さんが教えてくれたことは、自分を大切に生きることに相反していた。
いつの間にか、人の顔色を伺いながら生きるようになっていた。

本心でもないのに、人を思いやることなど、できるわけがなく。
自分を大事にせず、他人など大事にできるはずはなかった。

A さんはぬいぐるみを抱きしめて言った。
「A ちゃん、今まで一人にしてごめんね、寂しかったね。もっと大事にしてほしかったね。
ごめんね。本当にごめんね」

自分の心に染みとおるように、丁寧に気持ちを込めて、言ってみたところ、、
涙が後から後からこぼれ落ちて、しばらくオイオイと泣いた。
隅っこに追いやられた A さんの本当の気持ちが表出してきた。

A さんは歪んだ偽善と決別した。
M子さんは、久しぶりに高熱にうなされていた。
解熱剤も効かず、どうやら風邪ではないらしかった。

割れるような頭痛と、体の痛みと、うだるような熱さだ。
熱い、熱い、熱い、、
大きな敗北感を伴った気持ちになった時、ふと高熱の中で思った。
なぜ敗北感?

こんなに苦しかったことは、、
そうね、、子供のころ、毎年何回か入院したっけ、、あの時は苦しかった。
喘息の発作や肺炎、その他免疫疾患。
(ここで、一言。喘息は立派な心身症です。引き金にアレルゲンについて言われますが、あくまで引き金なだけです)



子供の病気は夜間にひどくなるため、深夜に発作がひどくなったり、高熱が出たりした。

ある時、息が止まりそうに苦しくて、負けそうになって、M子さんはべそをかいた。
するとM子さんのお母さんは
「泣くんじゃない!泣くともっと苦しくなるからね!!」
と、M子さんを怒鳴りつけた。

また高熱を出して、学校を休んで病院に連れて行ってもらった時、昼ごはんにハンバーガーを買ってもらった。
(ここでハンバーガーというのがM子さんのお母さんの特徴をよく表している)
病院で治療を受けて、少し体が落ち着いて、具合が悪い時じゃないと買ってもらえないハンバーガーを頬張っていたところ、、お母さんは
「いい加減にしてよ!あんたなんかにかまっているほどお母さんは暇じゃないんだから!」
とM子さんを怒鳴った。

M子さんは、ホッとしたので少し微笑んでハンバンガーを食べていたところ、その笑みがお母さんの癇に障ったようだ。

どんなに重篤な状態でも、歩いて病院まで行った。
体が辛かったから、肩をいからせて握りこぶしをぎゅっと握って歩いた。
お母さんは手をつないでくれなかった。

M子さんは精神的に追い詰められている時に、体調をひどく崩し入退院を繰り返した。

さて、子供のころを思い出しながらM子さんは少しの間病院に通院することになったのだが、改めて思ったのは、病院にお世話になると、人として必要最低限のケアを受けられることだ。
それは、医療的側面もあるが、精神的側面がお実はとても大きいのだと。

どんな病院の看護師さんも、鬼のように恐ろしい人はいない。
治療中はそれなりに、親切に扱ってもらえる。
毛布をかけてくれたり、そっと体をさすってくれたり、「大丈夫ですよ」との優しい励まし、これが非常にうれしかったりするのだ。

そっか。
M子さんは思った。
自分が子供の頃に病院に駆け込んでいたのは、病院では人として必要最低限の扱いをしてもらえるからだと。

子供の頃、決して好きで発作を起こしていたわけではないのである。
本当に苦しかった。
何度も死ぬと思った。
辛かった。
なんで一度も苦しみに共感する言葉も、不安を和らげる言葉もなかったのだろう。

M子さんのお母さんは、仕事が大変で、子育てが大変だから子供を怒鳴って絶望の淵に叩き落としても良いと思ったのだろうか。
少なくとも、本当に子供を助けたいと思ったなら、そんな扱いはしなかったことだろう。

M子さんは、改めてお母さんの毒を感じた。
発作や高熱で苦しんでいる時に味わった絶望と孤独、敗北感は、自身の免疫力に大いに影響を及ぼしていると実感した。
この基底部にある毒と決別しなくちゃ!
と、M子さんはぬいぐるみを抱きしめ熱にうなされながら、苦しい自身に共感しぬいた。

M子ちゃん、本当に苦しかったね、辛かったね、頭が痛かった、泣きたかったね。
泣いちゃいけないなんて、意味がわからないね。
M子ちゃん、もう安心して良いんだよ。
大丈夫だよ。絶対に大丈夫だからね。
こんなに悲しい思いはもう最後だよ。
もう心配しなくていいからね。

M子さんは、子供の頃の痛みや心を追体験し、現在の痛みを味わいながら、お母さんから
「大丈夫よ」と言ってもらえることがいかに大事かをしみじみ感じた。

M子さんは翌日から、少しずつ薬が効くようになり、高熱から解放されるのであるが、こんなところにも毒が染み付いていたのかと、驚いたそうだ。
しかし、今回自身の苦しみに共感したことは、今後のM子さんの健康面に大きなプラスとなることは間違いない。
ある時 B さんは、地方に嫁いだ友人を訪ねた。

その友人は数ヶ月前に出産し、ママになっていた。
B さんは友人のママぶりを観察しに行った訳なのだが、、
帰ってきてからこんな風に語っていた。



私びっくりしたんです。
だってね、友人たら、赤ちゃんの顔をこんな風に近づけて、、
「まみちゃん、可愛い、可愛いっ!まみちゃん、可愛い!」って。
その可愛がりようったらないんです。
こーんなに顔を近づけてですよ。

B さんは、そんなの初めて見たと言う風だった。
そしてこう言った。

私ね、驚いたんです。
子供って、こんな風に可愛がって良いんだってね。
そう、こんなにメチャメチャ可愛がられて良いんだって思いましたよ。

その姿を見ていたら、妙な気持ちになって。
赤ちゃんにヤキモチのような気持ちを抱きました。
だって、私はそんな風に可愛がってもらったことがないんですから。

B さんは長年、暴君のようなお母さんに絶対服従を強いられて生きて来た。
その関係は友人親子のような、甘く温かいものとは対極にあった。

B さんは、もし自分が子供を産んだら、ちゃんと育てられないかもしれないと、大いなる危機感を抱き、カウンセリング治療を始めた。

お宅にお邪魔したところ、旦那さんと B さんそれぞれのぬいぐるみが、仲良く椅子に座って寄り添っていた。
朝はそのぬいぐるみを抱き上げて、幼稚園の頃に歌った「おはよう」の歌を歌って1日を始めるのだそうだ。

朝は、家庭から社会へ向かって一歩を踏み出す。
このスタートのタイミングはとても大切だ。
安心と勇気がこの一歩を踏み出す源泉となる。
B さんは、長いこと安心も勇気もないままに、外に放り出されるような朝を過ごしてきた。

だから、今、自分を投影したぬいぐるみと一緒に、朝の安心と勇気を育んでいるのである。
ときどき、コラムなどで見かける記事に、毒親の話題に批判的なものを見かける。

趣旨はこうだ。
「最近は親を批判するような表現を使い、いろいろ騒ぎ立てる風潮がある・・・親に感謝することもなく・・・」
要は、本来であれば親に感謝するところを、親について悪くいう風潮が高まっていると受け取れる内容だ。

この記事について、友人がコメントしていた。
「なんかさぁ、こんなことが書いてあったけれど、毒親のこと知らない人がいるのね?そういう人は、本質がわからないのね」
と。



おそらく、記事を書いた著者と同様の意見を持つ人も多いだろう。
しかし、知っておいて欲しいことがある。

人間は本来、親をもっとも信頼し、尊敬したいという願望を持っている。
この世に生まれ落ちて、一番最初に出会う距離の近い人が親である。

毒親育ちの子供は何に一番苦しんでいるのか?
それは、信じがたい言動の親を信頼できず、尊敬できないことに一番苦悩するのだ。
そして、尊敬できない自分の気持ちに対して、大いなる罪悪感を抱き、さらに苦悩が深まるのだ。

背きたくないし、誰よりも仲良くしたいと願うのは、毒親育ちの子供たち本人である。
だから、どんなに裏切られても、自分の命が危機に瀕しても、何度も信じようとするのだ。
だからこそ、毒親からの害は気付かれにくく、事件が起きてからでないと、その痛みが表出されない。

親の存在は子供の人格形成に重要な影響を与えるとは、世界でも当たり前の認識となったはずだ。
だからこそ、その存在に脅威があってはならず、子供には健全な愛情が注がれるべきなのである。

不完全な姿で生まれてくる赤ちゃんは、生後親からの関わりによって、人間として自立した存在に成長できるのである。

それには、積極的な親の関わりが不可欠なのである。
従って、赤ちゃんは親からたくさんの愛情を受けやすい条件を備えて生まれてくる

まず、女性は丸くて小さなものに対し、可愛いと思う感情が働く。
赤ちゃんは、お母さんに可愛がってもらえるよう、丸くて小さく生まれてくるのだ。

そして、人の顔の中でも、目を凝視する特性は、母親の目をしっかりと見つめ、愛情を獲得するために必要なものだ。
また、教えてもいないのに母乳に吸い付く行動も、授乳によって母親の体内にオキシトシンというホルモンが分泌され、お母さんらしさを育てるために不可欠だ。

赤ちゃんは、自分の将来が健全なものとなるよう、持って生まれた能力でお母さんを育てる。
しかし、この赤ちゃんからの働きかけに応じられない場合、親子関係に歪みが生じる。

歪みが生じた場合、お母さんには母性が育ちにくく、赤ちゃんを適切に養育できない状況が生まれる。
女性は子供が生まれたら、自動的にお母さんになるのではない。
赤ちゃんとの相互関係の積み重ねにより、お母さんになってゆくのだ。

相互関係に問題のあるお母さんは、自分が赤ちゃんだった頃にうまく育っていない場合が多い。
では、、
毒親にならないためにはどうしたら良いか?

以前の記事にも書いたが、とにかく赤ちゃんを抱っこすることだ。
体と体をくっつけて、肌の滑らかさや、温かさを確認し、目を見るのだ。

非常にわかりやすい研究に、人工飼育された猿の子育てを観察したものがある。
動物園で人間に飼育された猿は、出産しても自分の子供を抱かない場合が多いそうだ。
これは、自分が母猿に保育された経験を持たないからだそうだ。

しかし、根気よく、赤ちゃんを抱かせるよう働きかけると、最初は赤ちゃんから逃げていた母猿も、次第に上手に赤ちゃんを抱けるようになり、自分から授乳できるようになるという。

これは抱っこすることにより、オキシトシンという愛情ホルモンが分泌されるからである。
人間も赤ちゃんと触れることにより、オキシトシンが盛んに分泌される。
このホルモンは赤ちゃんとの触れ合いにより盛んに分泌されるのだが、これにより脳が育児に適した状態に変化するという。

一時期育児の欧米化により、スキンシップをタブーとする子育てが奨励された時代があるが、その後、世界の数多くの研究結果がスキンシップが必要であることを裏付けている。
スキンシップは道徳的に良いとされるものではなく、母親が母親らしく、子供は健全に育つために必要不可欠な心身の変化をもたらすものとして必要であることが証明されたのである。

その過程に省略はあってはならない。
その過程を経てこそ、信頼できうる関係が育つのである。

親子であれば、その関係すべてが麗しいというのは間違いである。

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