ただいま、おかえり -6ページ目

ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

人が傷つく時、それは孤独が恐怖になって襲いかかってくる時ではないかと考える。

恐怖に心が壊れた時、人は傷つくのではないかと考える。

例えば学校に行けない時、どんなことを考えているだろう。
行くことが苦痛。
何が苦痛か。
人がいるから苦痛を感じる。
人はいても、自分がそこに存在することに違和感を感じているから、、孤独を感じているのではないか。



例えばお母さんの叱責に怯えている時。
この世で一番味方になって欲しい人の存在が、世界で一番遠く感じられる時
孤独をしみじみ味わってはいないだろうか。

例えば仕事が思うようにできなくて、、または仕事が思うように見つからなくて
明日ご飯を食べるお金にも困る時、誰にも助けを求められない時、
食いしばる歯さえ根元から揺らいでいる時
自分をみじめに思い、寒風の中に立っている気持ちは、ひときわ孤独を感じてはいないだろうか。

人にとって孤独とは、最も堪え難い恐怖ではないだろうか。

これは味わったことのない人には、とうてい理解のできないことであるが、
この世で、たった一人、味方もおらず、ひとりぼっちの心に冷たい風が吹く時、
その冷たい風は、柔らかい心をヒラヒラと壊してゆく。

冷たい風は、呼び水となって、次の冷たい風を運んでくる。

人は、大切にされたい気持ちが叶わない時、ひっそりと傷ついてゆく。

あまりに痛いため、二度と味わいたくなく、力を込めて生きるようになる。
しかし、体と心が固くなればなるほど、その強張りが次の傷を招くようになる。

そんな悪循環が、嫌悪感に形を変え、人の人生を重く、苦しいものに変えてゆく。

本来人は、穏やかに、安心し、愛情の中で思い切り笑顔で、前を向いて生きたいと強く願って生まれてくる。
命に例外などないのだということを、どんな命の前でも忘れないで生きたいと思う。

どんなことがあっても、生涯、自身の尊厳性が脅かされることがないよう、自身を守るのは自分自身と思えるまで、大人たちは子供をしっかり見守って生きなくてはいけないと痛感する。
F さんは、片付けが苦手だったそうだ。
詳しく聞いてみると、きれいに片付いた空間で育った記憶がないという。

実家は自営業を営んでおり、いつも騒がしく、お母さんは家事に十分な時間を割けない。
お母さんは、子育ても、仕事も家事も、とても大変で、可哀想なんだと思っていた。
よくよく聞いてみると、お母さんはいつもため息をついて、大変だ、大変だと言っていたそうだ。

大変なお母さんは、当然家事などできるわけがないと F さんは思っていたそうだ。
(大変なお母さんは家事をやらなくても許されると F さんが思い込むほど、お母さんは愚痴を言っていたそうである)



でも、だんだん大きくなるにつれ、何かがおかしいと思い始めた。
友達の中にも、仕事をしているお母さんが何人もいたが、遊びに行くと、どの家もたいていきれいに片付いていた。

そして、どうやら足の踏み場もなく汚い家に住んでいるのは、自分だけだということに気づく。
しかし、それがどうしてなのか、考えてみたこともなかったそうだ。
なぜなら、家が汚いのは、F さんにとっては当たり前のことだったからだ。

物心ついた頃から、時々おばあちゃんが片付けに来てくれていたと言う。
それでも、すぐに散らかって、F さんが独立してからも、実家は片付いたことがなかったそうだ。

ずいぶん大人になって、自分の心が十分育っていないことに気がついた F さんは、たくさん本を読んで、清潔でなく、整理整頓されていない家 (いわゆるゴミ屋敷や汚部屋のこと) で子供を育てることは虐待=ネグレクトであるということを知った。
汚い家で育ったから、汚いのが日常で、きれいな家は天上の夢で、汚いのが当たり前。
だから汚いことに違和感を持てず、不快感がわかなくなっていた。
汚れていることはわかっても、何をどうしたら良いか、お母さんから掃除や整理整頓を一切習っていなかったそうだ。

子供の頃、友達の家には遊びに行けても、家が汚いから、友達を連れて来ると怒られ、F さんの家には他人が足を踏み入れることはほとんどなかったという。
F さんは、生育環境がどれだけ異常だったかを実感し、自らの心の問題と取り組み始め、少しずつ心が片付いて行くと、不思議と何が汚れているか見えてくるようになった。

そして、F さんは自分が片付けた空間で生活できるようになった。

ある時、お母さんが倒れ、実家を手伝いに行った時、改めて実家の汚さに辟易した。
お母さんは、もう引退して家にいる。
しかし、働きすぎて疲れすぎたなどと言い、一切片付けをしていなかった。

洗面所には、たくさんの買い置きのシャンプーや石鹸がカビていた。

冷蔵庫には、空間がないほど食品が詰まっていて、その重さで棚板にヒビが入っていた。
食べられる食品は2割程度で、賞味期限切れの食品や、茶色く溶けた野菜が、大量に詰め込まれていた。

台所には、床から腰の高さまで、空の牛乳パックが積まれていた。

この異常を不快と思わないお母さんの異常さに、改めて驚愕したそうだ。
そして、今までの認識を改めたそうだ。

どんなに忙しくても、片付けはできるものである。
できるかできないかは、自分のいる空間に不快を感じられるかどうかだと。
さらに、汚い空間に自分の身を置くことは、自分を粗末にして生きることだと痛感したという。
自分を大事に生きていたら、大切な自分を不快で不潔な空間に置くことを良しとしないだろう。

片付けをしない、片付けができない状態というのは、自分を大事にしないということに通じる。
また、家 (部屋) の状態は、心の状態に通じるとも。
言い換えれば、頭の中がぐちゃぐちゃだったら、生活空間も必然的にぐちゃぐちゃになるということだ。

例外として、先天的な障害があるような場合、片付けができないことがある。
だからと言って、不快を感じないわけではない。
そのような場合は、補助を得て、空間を清潔に保てば良いのである。

人として、社会と関わって生きているならば、汚れた空間に不快感を感じないわけがない。

そして、どんなに多忙であろうと、どんな理由があろうと、子供が育つ環境は、整理整頓されており、掃除を怠ってはいけない。
汚いことは、子供の心に大きな傷を作るのである。

汚い家を、片付けられないお母さんから生まれた自分を悲しく思うのである。

何を言っても言い訳ばかりのお母さんに、F さんは大きな失望を抱いた。
やる気がないのである。
お母さんとしての誇りもないのである。
一生に一度くらい、自分の力で、自分の住む空間を快適にしても罰はあたらないだろうに。

F さんは、実家に片付けに行くより、自分の心の傷の修復に、しっかり時間をかけようと決意したのであった。
劣等感を抱いている時の人の心は「恥ずかしく、情けなく、悔しく、いたたまれない」等の気持ちでいっぱいで、なかなか客観視することは難しい。

が、ここでそんな気持ちを持った時の人の心の構図を考えてみたい。

劣等感を抱いているのは 20 歳の A さんとしよう。

短大を卒業し、就職したばかりである。
意欲満々社会にでたものの、学生の頃とは違った上下関係をはじめとした差別主義に辟易とし、まさしく五月病かと思える憂鬱な気持ちで毎日を送っている。



そんな時、配属された部署のミーティングで自己紹介をすることになった。
他の二人の同期は、たどたどしい口調ではあったが、精一杯ハキハキと抱負などを述べていた。
A さんの順番になった。
人前で話すのが大変苦手なため、声は上ずり、頭が混乱し、何を話したのかさえわからなくなって、着席した。

A さんは自己嫌悪に陥った。
どうして自分は、人前で話ができないのだろう。
どうして頭が真っ白になってしまったのだろう。
あああ、なんてことだ。
情けない。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
わたしのバカ!

誰にでもあることかもしれない。

この時、A さんは自分で自分を責めた。
自分を責める構図とは、どういうことか。

それはダメージを受けて弱っている自分の心に対し、自分の手で駄目押しのとどめを刺すことに他ならない。
自分にとどめを刺す自分の眼差しは、温かいだろうか?

A さんのお母さんは、仕事に追われ、子供たちとゆっくり関わることができなかった。
A さんはいつもお母さんに早くするようせかされたり、お母さんのスピードについていけないと、ひどく怒られた。
お母さんに褒められたことや、心に寄り添ってもらったことはない。

A さんは、自分のペースを知るチャンスがなく、自分の特性にも目を向けるチャンスがなかった。
そればかりか、いつも怒られていたために、自分の能力が低いと思い込み、能力を発揮する場面になると、必要以上に緊張するようになった。

A さんの心の声を聞いてみよう。
A さんの心 1 「ちょっと、しっかり立ちなさいよね」
A さんの心 2 「そんなこと言ったって、何話したら良いかわからないから震えちゃうよ」
A さんの心 1 「まあ、だらしない!お腹に力入れて、手のひらに人の字を書いて食べなさい!」
A さんの心 2 「そんなことしたって無理だよ」

高圧的な [心 1] と、低姿勢の [心 2] がせめぎ合いをしている。

A さんは逃げるわけにいかず、その場で恥ずかしい思いをすることになるのだが、その時、高圧的な [心 1] が、低姿勢の [心 2] を徹底的に追い詰め、最終的に無能の烙印を押している。

言い換えれば、劣等感を抱く心には、高圧的な自分が、冷たく鋭く自分に無能の烙印を押しているのだ。
自分の心の中で、つぶれる自分の上に君臨する、冷たい自分が存在していることは、以外と認識されていない。

冷たい自分の心は、養育者の冷たい言葉が養分となり、冷たい言葉をかけられた分だけ大きく育ってゆく。
A さんの場合は、お母さんの言葉がその養分となった。

では、ひどい劣等感から解放されるにはどうしたらよいか。
寄り添ってもらうチャンスのなかった自分の心に向かって、意識的に共感をしてゆくのだ。

自己紹介をした時、A さんはどんな気持ちだったろうか。

胸に手を当てて、正直な気持ちを見つめてみよう。
「恥ずかしい、話すのが怖い、いやだ」

こんな気持ちを、繰り返し言葉にして、自分の心に注ぎ込んであげるのだ。

「A ちゃん、恥ずかしかったね。話すのは怖いよね、とっても嫌だったね」

ぬいぐるみを抱っこし、自分に見立てて言葉をかけてあげるのがとても効果的だ。

成育期には戻るわけにはいかないので、大人になった自分を修正してあげるには、自分に共感してあげることが一番効果的であり、早道なのだ。

繰り返し、繰り返し行うことで、心は安定し、物怖じしない自己を再構築できるはずだ。
M 子さんが、必死で前に進もうと始めてから、数年が経過した。

カウンセリング治療により、これまでの自分に影響をもたらしてきた発想が、実はお母さんからの言葉が色濃く反映されていたことを知り、その一つ一つと決別することを実践してきた。

自分が不幸なのは、自分に責任があるではなく、生育環境によって染みついた「自分は悪い子」だと言うネガティブな発想が根本原因であることと知った。

M 子さんは、今まで生きて来た灰色の世界に背を向けて、新しい世界を前に深呼吸をした。
扉を開けると清々しい日差しに目がくらんだ。



「私は悪い子じゃなかった」
これは、自分が悪い子だと思って生きて来た人にとっては、恵みの雨のような言葉である。
それだけ、「お前は悪い子だ」という言葉は、心に深い傷を作るのだ。

この言葉はいくつかのネガティブなメッセージを含んでいる。

お母さんは私のことが嫌い
私は悪い要素を持つ
明るい未来はない

これに対し、次のような心が働く

お母さんに好かれたい
良くなりたい
幸せな未来が欲しい

子供はこんな世界の中で、もがくように生きるようになる。

反対に「お前は良い子ね」
という言葉は、子供に対する最大の肯定の言葉であり、お母さんに愛されることは、小さな子供の毎日を薔薇色に染める。

「悪い子」の生きる世界は、肯定されたい欲求が満たされない不安の世界であり、そんな世界での母の言葉は刃物であり、いつ飛んでくるかもわからない刃物に傷つかないよう、恐怖に怯えて生きることとなる。
こんな「悪い子」の世界を最初から望んで生まれてくる子供はいない。

他の記事にも書いたが、生れたての子供は、思い切り母親に愛される要素を持って生まれてくる。
そして、泣いたり、むずがったりして積極的に母親に働きかけを始める。
病気や事故などで、その力が弱かったとしても、その持てる力精一杯をお母さんに繋がるために使うのだ。

子供の働きかけにより、返って来るお母さんの言葉や振る舞いが肯定的なものであれば、子供の生きる世界は美しく彩られてゆくが、否定的なものであれば、子供は不安を敏感に受け取り、その生きる世界は次第に影を帯びてゆく。

人間が生きる世界は、実はお母さんからもらったものなのだ。
何も問題がない場合は、そんなことを考えもしないが、「どうして自分は生きるのが上手ではないのだろう」など、考えるきっかけを得て初めて気がつく。

自分のいる精神的空間の隅々まで、お母さんに彩られている。
良かれ悪しかれ、影響を受けてしまうのだ。

では、お母さんはどうすれば良いのか。
どうしたら良かったのか。

日々子供の心に共感することが何をおいても必要なのだ。
簡単にできる人にはどってことないことだ。
しかし、できない人にとっては、こんなに難しいことは、他をおいてないほど難しいことなのだ。
できない人は、してもらっていないからできない。
これは、お母さんの代から始まったことではなく、おばあちゃん、ひいばあちゃん、ひいひいばあちゃんと、どこまでも遡ることができる。

共感できないお母さんが「共感しよう」と思うことは、一家、一族の歴史を変える重大事になるのだ。

それは、子供の視線の止まる先に何があるかに気づき、それを見ている子供がどんなことを感じているかを言葉にすることだ。

嬉しい時に「嬉しいね」
痛い時に「痛いね」
と子供の心をお母さんも感じることなのだ。

子供が初めて見るもの、初めて食べるもの、初めて味わう気持ちをお母さんも改めて感じ、言葉に変換して伝えた時、子供の心には新しい心の概念が生まれる。
お母さんと一緒にその概念を作った子供は、お母さんにたくさん心を共有してもらったと感じている。

その気持ちは非常に心地良く、精神的に子供を安定させる。
子供の心を大切に抱き上げるような、子育てにとって一番大事なことではないかと思う。

お母さんに心を抱き上げてもらった子供は、お母さんから大事にされてもらったように、他人を自然に大事にできる人間に育つ。

心は、言葉で簡単に傷ついてしまうが、心は言葉では育たない。
心は、お母さんの愛情の発露である行動が育てるものなのだ。
日本人は絵に描いたような良い人を模範にし、例えば過去に起きた出来事などは早く忘れて、新しい気持ちでスタートすることが大切だとかいう風潮がある。

そして、毒親環境に育った人は、いつまでも過ぎたことをクヨクヨと言っているなど説教じみたことを言われることが多々ある。
そんな心無い言葉を聞くと、すべては自分が至らないせいだと更に自責の念にかられる。

そしてこんな風にクヨクヨと思ってしまう自分は、人として未熟で、もっとしっかりしなければいけないなどと、更に自分を責め続ける。



例えば、就職を機に親元から離れても、親から刃を向けられ心深く傷ついたままでいると、親が生活に介入しない環境に自分の身を置いても、ふと自分に刃を向けてしまっている。
自分の心に常に刃が向けられた状態で生きてきたため、物理的に親から離れても、長年心に染み付いた癖が、刃物を引きつける。

自分を大切にすることを知らないために、常に自信が無く、周囲を神経質に気にする振る舞いが、例えばいじめっ子などの目に止まり、いじめの標的にされたり (社会に出ようといじめっ子は弱い人をめる習性から解放されない) いじめまでは行かないまでも、周囲から大切にされない。

いじめられたり、無視されたり、大切に扱われないと、内心で「やっぱり私は嫌われ者なんだ」と。
確信が強くなる。
この悪循環の毎日が積み重ねられ、毒親育ちの人は幸せを掴みにくい。

K 美さんは、お母さんをひどく恨んでいる。
女手一つで育てられ、幼少期は大切にされた記憶が一切ないと言う。
とにかくお母さんの一挙手一投足が気に入らない。
すべては自分に愛情がないからだという結論に到達する。

一見気丈に見えるが、語気も荒く「私は自分が大嫌い!」と声高らかに断言する。
だから、自分を好きになれないから、自分を好きになってくれる人の存在が欲しいと言う。
そして、一時妻子持ちのパートナーばかりを選んで交際をしていた。

それには理由がある。
自分に自信がないから、対等にお付き合いすることができないというのだ。
相手に正式なパートナーがいれば、自分が対等な舞台に登場することはないので、安心してお付き合いできると。
最初から負け戦を選ぶのだ。
(付け加えると、このように自信のない相手を選んで常習的に不倫をする人の傾向は、いじめっ子そのものである)

ある時こう言ってみた。
「ねえ?K 美さん?そんなに自分のことが大嫌いなのに、その大嫌いな自分を誰かに好いて欲しいなんて、、おかしくない?」
K 美さんは一瞬押し黙った。

それもそうだ、と思ったようだ。
こんなに大嫌いな自分を、誰がどうやって好きになってくれるのだろうと。

誰か、自分を好きでいて欲しい。
誰かに大切にされたい。
誰かに寄りかかっていたい。

一見どこにでもあるラブソングの一節に見えるが、健全な大人として自律したした心が育っていたなら、ここまで自分に関する欲求を抱くだろうか?

恋愛を隠れみのにした共依存は時として破滅的な末路をたどる。

自律した一個の人間として生きるためには、その存在を健全に肯定され、幼少期は生きるための助けを受け、安心して自分の足で立ち上がる力を養う必要があるのだ。

成育期が過去となろうと、心が育っていない現実や、心の傷は過去ではなく現在も存在しているのだから、しっかり向き合って不足を補い、傷を治す必要があるのだ。
ぜひ、背を向けず自分と向き合い、健全な人生を勝ち取って欲しい。